心があったまる体罰などない

2019-02-05

何かの拍子に思い出すことがある。

私の小中高時代は体罰が身近にあった。暴力をふるいそうにないタイプの教師でさえ、生徒たちに手をあげたり、見て見ぬふりをしていた。

小1から強烈だった。30歳ぐらいの若い女の担任は美人顔だけど冷たい目をしたヒステリックな人で、あれはただの好き嫌いだったのではないかと思うのだが、忘れ物の多い不器用なYくん(本当は面白くていい奴なのだ)をターゲットに、ちょっとしたことで叱りつけ、皆に自習を言い渡しつつ女教師は教室の後ろまでYくんを 引きずって行き、ロッカーのそばで殴る蹴るしていた。無言で。

それを見た素朴な6歳児に一体何ができましょう。ていうかもう「これ何なの?」って全く理解ができないわけですよ。これが学校?これが社会というものなの?忘れ物ってそんなに悪なの?

(数年前に地元紙で、その女教師がどこかの小学校で校長をつとめ終えたことを知りました。あんな人でも校長になれたんだ、フーン)

 

その後4年生からの担任はさらに若い女教師で、熱血教師をやりたいんだろうけどキメが粗くてぼろぼろ破綻していた。何でそうなったのか全く記憶にないのだが、横一列に並ばされて往復ビンタされたことがあった。「歯をくいしばりなさい!!」バチンバチン!「先生の手も痛いんだよ!!(興奮で目がうるむ)」

なにこれ。

結局何で怒られたか全く覚えてないし、ただ心が「ぽかーん」とした記憶しか残っていない。そして、とても不快だったビンタの衝撃とジンジンしびれる痛み。

 

大人になったら先生たちの気持ちがわかるのかと思っていた。でも、彼らの年齢を越えた今でも私にはよくわからない。人に手をあげること自体わからないし、人様の子供にビンタするっていう発想がない。ぜんぜん意味わかんないです。だって、出来ます?人様の子供を殴れます??たかが教師の分際で??意味わかんなくない??指導?殴らなきゃできない指導って何??力による支配??ただ思い通りにならないイライラを「このクソガキ!」ってぶつけただけじゃないの??

体罰に耐えてきた人に多いんですけど、「暴力も時には有効」とか「言ってもわかんない奴には体で教える」とか「そういう厳しさを経て人は強くなれる」みたいなのも、はぁ???
殴られて心があったかくなりましたか?うれしかったですか?いい思い出ですか??

「昔はみんなそうだった」「そういう時代だった」って諦め顔で言うのも嫌い。
体罰は昔も今もダメなんだよ。それで傷つく人はいても、心があったまる人なんていなかったんだよ。金八先生の世界とは違うんだよ。

その後、中学でも高校でも体罰教師は必ずいました。ほんとにゴロゴロいたんですよ。チョーク投げつける奴とか(はずれて全く無関係な女子に当たったりして非常に危なかった)、ひ弱なくせに大声で怒鳴ってばかりで豪速球を連続で打ち込んで私の目に当ててきた軟式テニス部の顧問とか、竹刀持って廊下歩いて違反の制服着てる生徒片っ端から叩いたり引っぱりまわす奴とか。セクハラ教師もいて、そっちはけっこう保護者が騒いでやめさせられたりしてたけど、体罰教師はまあ伸び伸びとしていた。むしろ保護者側から「厳しく指導してやってください」とお願いされていたほどだ。

暴力教師でも、指導が熱心で生徒に慕われてたら「いい先生」ってことになっちゃって、私に言わせれば「ケッ、暴力教師のくせにいい先生ってなんだよ」って感じなんだけど、本当にそういうことになっていて、生徒を竹刀でバンバン叩いてるのに、そこを通りがかった他の先生方も「やってますねえ」って感じの半笑いで通り過ぎるみたいな、のどかな日常の中に暴力がふつうに溶け込んでる光景は今思い出しても吐き気がするよ。

叩く方が「愛情を持って」「お前のために」「仕方なく叩くんだぞ」ってあたかも正しいことをしています風を装って叩いたとしても、…いや、おかしいだろ、愛情を持ってたらふつうは人なんか叩かないんだよ、まあいいや話を続ける、その頭のおかしい人が「愛情を持って」「お前のために」「仕方なく」叩いたとしても、叩かれた方は「うわ、叩かれた〜!」としか思いません。「あの時叩かれて良かったな〜」なんて全然思いません。何年経っても「叩かれたなあ」という不快な記憶でしかない。

体罰はまったく何の教育的効果ももたらしません。
それでもまだ人を叩きますか?

 

 

寮を出る日

2019-01-28

時々、寮生活をしている夢を見る。もう5〜6年になるだろうか、おそらく同じ寮が継続的に出てきている。わたしはその寮の中を歩いたり、誰かと話したり、夜明け前の青白い部屋で一人テレビを見ていたりする。そして何かを探したあと簡単な身支度をして、まだ明けきらぬ朝の透明な空気の中へ一歩踏み出す、というような夢だ。それが何を意味するのかわからないし、パラレルワールドってやつかもしれない、と想像してみても頭がぼんやりして答えは出ない。ただ何年も同じ寮がたびたび夢に出てくる、というだけのことなのだ。

ウン十年前に一年間だけ、実際に寮生活をしていたことがある。場所は札幌。二十歳前のことである。「若宮寮」という、一目で女子寮だとわかってしまうような名前の木造二階建て。寮生は14名ほどいた。入ってすぐの部屋には30代の寮母さんと4~5歳の娘が住んでおり、そのほかに数部屋。突き当たりは共同のお風呂場。トイレも共同で一階と二階にひとつずつ。部屋は8畳ほどの二人部屋で、二段ベットとストーブと小さなキッチンがついていた。私の部屋は二階の一番奥。廊下には黒電話が一台あり、リーンリンと電話がかかってくれば帰寮している誰かが取り継ぐ。「◯◯さん電話だよー」「はーい」。

そういえば毎晩同じ男から卑猥ないたずら電話もかかってきていた。「ねえねえどんなパンツはいてんの?」、無言で切る、またかかってくる、「しつこいよ!」切る、かかってくる「ねえねえ」、「ちょっとアンタなんなの?」切る、「ねえねえどんなパンツはいてんの?」、ガチャンと切る、かかる、切る、ねえねえ、切る、どんなパンツ、切る、はいてんの?、切る。

寮生活はなんとなく居心地がわるかった。二段ベットに占領された二人部屋で、ドリカム大好きな元ヤンの純子ちゃん(通称じゅんじゅん)と相部屋。毎朝うれしくも楽しくも大好きでもないドリカムの歌で起こされた。寝ぼけまなこでタバコに火をつけ、朝のコーヒーを飲みながら二人でポンキッキーズを見た。

じゅんじゅんは自他ともに認めるヤリマンで、昨日は誰それとやった、誰々とは別れた、という話ばかりしていた。八百屋でバイトをしていて料理と編み物が得意。毎日せっせと弁当を作り、売り物と見まごう出来のカウチンセーターをまたたく間に編み上げた。節約と貯金も趣味で、バイト代のほとんどをしっかりと貯め込んでいた。とにかく早くいい人を見つけて結婚したいらしかった。誰彼かまわず寝るのは、「この人だ!」と思える人を必死で探していたからかもしれない。と今なら思えるけれど、私はフットワーク軽くやりまくれる彼女をうらやましいと思いながら、うっすら軽蔑もしていた。

私とじゅんじゅんは、ことごとく趣味や性格が合わなかった。ヤリマンという以外は堅実で古風な彼女に対し、私は世間知らずな甘ちゃんでファッションと本と音楽にしか興味がなかった。人と接する仕事がしたくなくて駅前のオフィスビルで清掃のバイトを黙々とやった。威勢と愛想の良さがものを言う八百屋とは対照的だ。チェックのネルシャツに色あせたジーンズ、インディアンジュエリーを身に付けるじゅんじゅんに対し、私は食費とバイト代のほとんどをつぎ込んだヨウジやギャルソンを着ていい気になっていた。ドリカムが流れる部屋でパンク、ヒップホップ、インダストリアルミュージックをヘッドフォンで聴き、タウン誌でお得情報を収集するじゅんじゅんを尻目に、i-DやVOGUEを眺めた。JONIO(高橋盾)や2GO(NIGO)やヒロシくん(藤原ヒロシ)に憧れ、いつか友達になれると信じていた。将来の夢はどこか空疎で、毎日が楽しければよく、ただ流されるように生きていた。

最初の頃は「縁あって同じ部屋にいるのだし」と気を遣い合ってそれなりにうまくやっていた。二人で食費をシェアして料理を作って一緒に食べたり、月9を一緒に見たり、東急ストアで買ったお徳用アイスを分け合って食べたりした。そういうことが一つずつ減っていき、おのおの好きな時間に好きなものを調理して食べるようになっていった。もともと趣味や生活習慣のまるきり違う二人である。差異は少しずつ開いていって、やがて何処にも接しなくなった。私たちは学校でも寮でも必要なこと以外言葉を交わすことがなくなった。ある時、別の部屋のアッキーとじゅんじゅんが私の悪口を言っているのを聞いてしまったことがあった。「あの子なんにもしないで寝てばっかり」
わざと聞こえるように言ったのかもしれない。

寮生活では寝てばかりいるように見えたのかもしれないが、私は学校や遊びに忙しかった。一階の部屋の子たちと仲良くなって、深夜のクラブ活動や朝帰りの際に窓から出入りさせてもらったりした。当時から、家のことより外に気持ちが向いていたのだろう。刺激的で悪い仲間にも恵まれ、一年のほとんどを遊びに費やした。全くどうしようもない奴だと我ながら思うけれど、あの時めちゃくちゃにやったことを私は後悔していない。愚かだったけれど、面白いものをたくさん見た。無いものは自分たちで作ればいいことを知った。ゴミ袋でスカートを作り、ふとん綿でジャケットを作った。ハイブランドのショップには毎日のように通ったし、おばちゃん向けの洋品店や古本・古着・古道具屋は宝探しの重要なスポットだった。十代のうちに背伸びをして本物をたくさん見ておいたほうがいいと思う。何が良くて何が悪いのかを肌で感じること。それを知った上で選び取ること。当時見たり聴いたり経験したもろもろが、今の私の「感覚」を作ってくれたような気がしている。

ウン十年前に若宮寮を出た私はもうすっかり若くない年になってしまった。JONIOとも2GOともヒロシくんとも友達にはなっていない。刺激的で悪い仲間たちとも、もう誰一人つながっていない。あれほど好きだったファッション業界にも結局は進まなかった。その後色々な場所へ行き、色々な人と出会いまた別れ、色々なことがあった筈だけれど、全く何もなかったような気もしてしまう。

私はまだ「寮」を出ていないのかもしれない。
自分の精神年齢を二十歳ぐらいに感じてしまうのはきっとそのせいだ。

よく学び、よく忘れ、私は懲りずにまた学ぶ。

2018-11-30

以前通っていた美術教室は今どうなっているんだろうと気になって検索してみたところ、ブログだけが残されていました。

美大合格者を掲載したエントリーは削除され、あろうことか私の拙いデッサンとコメントを紹介したページ(頼まれて自分で書いたんだけど)がトップに来てしまっていて、顔がカーっと熱くなりました。

 

フンフン、こんな真面目に描いていたんですねえ。

私が教室に通い出したのは2008年だと書かれてあり、おお、ちょうど10年前だったんだなあなどと懐かしむ余裕もなく、まあちょっとこれを見てくださいよ。

 

 

 

 

 

………
(言葉を失い、膝から崩れ落ちる音)

 

こんなのよく教室のHPに載せたよね。当時の私は「ヒッヒッヒ、面白いだろう」のつもりだったんでしょうよ。寒いよ。そういえば当時やっていたブログでもこれを面白おかしく紹介していました。寒い寒い。

でもこれを描いたのはマジです!正真正銘10年前の私です。しかも全然ふざけてないんです。教室へ見学に行った日、試しにクロッキー会に参加してみて〜!と言われ、わけもわからず、頭に汗をかきながら必死で白人男性を描いたもの、それがこれである。

子供の頃からそこそこ絵がうまいということになっていた私でしたが、大人になり、まったく絵を描かなくなって10数年経ってしまうと、小2の子が初めて見た少女マンガに出てくるカッコイイ男の子を真似して描こうとしたけどダメだった、みたいな絵になってしまうことがわかりました。まあ、元々うまいってわけじゃなかったってことなんだよね。

 

でも先生はすごいです。これを見て笑ったりしませんでした。
「(こいつぁ教え甲斐があるぞ…ポキポキ)」
と指を鳴らしたかどうかはわかりませんが、「大丈夫、描けます」と確かにおっしゃった。鉛筆の持ち方や線引きの練習から始まり、クロッキー、石膏デッサン、モデルさんを囲んでの人物デッサンと進み、

ちゃんと描けてるのかどうかはわからないけど、やっと人らしいものが描けるようになり、

アクリル絵の具も覚え、

目と手が連動して描くスピードも上がり、

受験生よりガッツがあると言われたりしました。

 

実に6年間通いました。距離的にも近いわけじゃなかったんですけど、雪の日も車で通いました。何がそこまで私を駆り立てていたのかよくわからないけれど、「描ける」って思いたかったのかな。デッサンをやってみたかったんですよね。ずっとコンプレックスとしてあったので。目に見えるものをそのまま紙に落とし込めるかどうかも試したかった。単純にものを見て集中して描くのは楽しかったしね。あと自分の感覚が間違っていないのか誰かに見てほしかった、っていうのもある。先生はそもそも現代美術の人だったんだけど、デッサンも超うまくて美大受験教育も長くやっているプロなので、感性が鋭く、鋭すぎるがゆえ多少言葉がきつく感じられる人も居たようだけど(泣いてしまう子もいた!笑)、私はズバっと言ってもらってありがたかったな。コーヒーとお菓子とおしゃべりの休憩タイムも好きだった。先生がかけるマニアックすぎる音楽も全く教室に合ってなくてサイコーだった。

…とはいえ、それ以来描いていないのが現実。見る目は養われたけどね。
なんとなく申し訳ない気持ちがする。描きたくなったら描くサ、と思ってもう4年も経ってしまいました。

 

そして私は今、また新たな先生の下で新たな勉強を始めています。(!!)

昔読んだ占いに「学業に縁があり、一生何かを学ぶでしょう」と書いてあったのを思い出します。一生何かを学ぶ、というのは何も学んでいないことと同じではないか、とも思えるのですが、いいのです。一生勉強。最高じゃん。

今やっていることは、これを絶対にモノにしよう、これをずっとやっていこうと思えるものです。不思議な縁としか言いようのないきっかけ、先生との出会い、様々な年齢の仲間にも恵まれ、自分の知らなかった面が浮き彫りになって今までにない充実感の中で学ぶことができています。

どうもこの偶然は偶然ではなく、
「今、わたしは“不思議”の中にいるなぁ…」
と思うことが多いので、きっとこのことは何年か後にじわじわ効いてきて、改めて書くことになるだろうと思っています。

学びの成果も発表できる時がきたら、みなさんにもお知らせしますのでお楽しみに〜。

白い犬

2018-09-10

何年分もの写真を整理しているのだけど、犬の写真は一枚も捨てられない。この表情を見て号泣してしまった。おどけた表情ばかり撮っていたつもりだったけど、こんなのもあったんだね。首のあたりのモコモコしたところを触って、においを嗅ぎたい。「くさっ!」って言いながら、指に残ったにおいをずっと嗅いでいたい。

会いたいよ。

なつきちゃんのこと

2018-08-03

なぜか突然なつきちゃんのことを思い出したので書きます。

なつきちゃんは小学4年ごろに私が通うド田舎小学校に転校してきました。親の仕事の都合とかだったと思います。青森市から姉妹で転校してきました。

なつきちゃんは、少女漫画みたいに大きくてキラキラした目をしており、その上にはどっしりと太い眉毛が鎮座、頰にたっぷりのそばかす、美形成分より面白みの方がまさってしまったような愛嬌のある顔(今思えばふつうに可愛いと思う)をしていました。そこに黒々としてクセのある剛毛が乗っかり、背格好は小柄で中肉。もっとも特徴的だったのは、ガラガラ・キンキンしたその声。

勉強や運動は苦手、片付けたりするのも不得意なようで、机の中はいつもぐちゃぐちゃ。ドジだったり、言うことが天然だったりして、男子にはよくからかわれていました。なつきちゃんのお姉ちゃんは、なつきちゃんをひっくり返したように正反対でオール5の才色兼備。なにかの行事の時に姉妹で話しているのを見たことがあるのですが、まるで女王様と召使いのようでした。ツンとプライドの高そうな美しいお姉ちゃんに対し、引け目を感じているのか猫背になって困ったような表情でおどけるなつきちゃんの顔を覚えています。私はなんだか胸が痛くなって「なつきちゃんのほうが100万倍いいよ」と思いました。

 

そんななつきちゃんにも輝く瞬間があったのです。

休み時間中、彼女は教室の真ん中で一人芝居をしていました。彼女の周りを取り囲むように人が集まります。ストーリーは主に不穏な恋愛もの。いつもへらへらしているなつきちゃんも一気にグッと目つきが変わり、役に入り込みます。夫婦仲を切り裂く悪女、火遊びする夫、妻の不貞、激しい言い争い、舅のいじめ、離婚そして再婚、実は兄妹だったり、隠し子がいたり、最後は悪い病気であっさり死んだり…という、びっくり設定でドロドロとした昼ドラのような、おいおいどこで覚えてきたんだよ!?っていう大人の愛憎劇を全て一人で演じるのです。
ストーリーもセリフまわしも全部即興。話のつじつまが合わないぞ、などとツッコミが飛ぶこともあったけれど、それでもみんなけっこう面白がってそれを見ていました。子供が大人の世界を真似たお遊び劇ではあるものの、妙にリアリティもあったりして実際面白かったし、こういう子、すごく珍しかったんですよね。

当時クールなタイプだった私に、なつきちゃんは割となついていました。漫画を描く私の机にかじりついてじーっと見たり、いろいろ質問してきたり、たまに上目遣いでベタベタしてきたりしました。正直ウゼェ…って思うこともあったんですけど、私も結構なつきちゃんのことが好きだったし、一目置いていました。

なつきちゃんはおそらく小6ぐらいまで私たちの町にいて、それからまた青森市へ戻っていったように記憶しています。

 

ウン十数年の月日が流れ…
なんとなくテレビを見ていたら、ある高校の演劇部が取り上げられていました。その舞台の様子が映し出され、中心にいた主役の女の子が大うつしになった時、私は息を呑みました。

「なつきちゃんだ!!」

いえいえ、そんなはずはありません。私はすでにアラフォーなのに、なつきちゃんがまだ16〜17歳なわけがありません。でも、嘘でしょ!?っていうぐらいソックリだったんです。

小学校時代、私たちの輪の中心で熱演していたなつきちゃんにしか見えませんでした。顔も背格好も声の感じもそっくりでした。
きっと、なつきちゃんは自分そっくりのあの子を産んだのだと思います。

もちろん、まったく関係がない可能性もあります。

でも私には「なつきちゃんの子ども」というのが一番しっくり来るのです。あんなにそっくりで、演劇に打ち込んでいて、しかも主役だなんて。勝手に私の中でなつきちゃんと主役の子の顔が重なり、感慨深くなってしまいました。

なつきちゃんの子供。私の中で、そういうことにしておきます。
あの子の目、すごくキラキラしていたなあ。

蛍の光 第6回 「大館ドライブイン」

2018-07-30

閉店になったお店などを写真で紹介するシリーズです。

 

大館ドライブインです。詳細は不明です。

もっさりしていてイマイチ垢抜けない良さがある文字。

逆光のせいで静けさが増幅されてドラマティックになっていました。
お食事、宿泊、のほかに何が書かれていたんだろう。手品、タロット、かな。(違うと思う)

ドライブインって、ここみたいに終わってしまう所も多いんだけど、現役もけっこうあるんですよね。車を走らせていて「お」と目に止まるのはドライブインが多いです。外観や雰囲気にはとても惹かれるんですけどねえ、入るまでには至らないことが多いです。

これには、私の子供時代の家族旅行が関係している気がするのです。小学2~3年生ぐらいだったかなあ、親戚らと分乗して夏休みの数日間を車で旅行した思い出の中に、「途中のドライブインで食べた適当なご飯」というのがあり、私にはそれがとても嫌な出来事として残っているのです。当時の街はずれのドライブインというのは、なんとなく薄暗くて流行っていない感じ、混んでいるのに活気がなく、料理もぱっとせず店員も無愛想でした。さらに、(これはドライブイン側の落ち度ではありませんが)私はそこのテーブルの網棚に大事なポーチと小銭入れを忘れてしまったのでした。あ、と気づいたものの時すでに遅し、今さら引き返せない距離だからあきらめるようにと諭されました。お気に入りのピンクのポーチと赤いギンガムチェックの小銭入れ(小さく折りたたんだ千円札も入っていた)を忘れたことがショックで、そもそも家族や親戚と行く旅行にたいして面白みを感じていなかった女児は、しみったれたドライブインに大事なものを忘れた馬鹿馬鹿しさも相まって「家で留守番して絵描いてたほうがマシだったなあ」などと思うのでした。

その時、
ドライブイン=いやな場所
と学習してしまったせいで、なんとなく今でも入るのをためらってしまいます。だからなのか、終わってしまったドライブインを見るとなんとなくホッとするのです。(ごめんなさい)

おや、どこからか調子っぱずれのピアノが聴こえてきました、蛍の光のようです。それではまた、ごきげんよう。

 

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白い躑躅

2018-06-02

「ツツジって漢字で書くとドクロみたいなんだよ」と友人は得意気に言った。
「どういうこと?」

躑躅(つつじ)
髑髏(どくろ)

「ほらね」
「ほんとだ」

 

数年後、友人は死んでしまった。

 

ツツジが咲く頃、私は得意気に言う。
「ツツジって漢字で書くとドクロみたいなんだよ」

私はまだ生きてる。

納豆巻きおばさん

2018-04-10

よく「容疑者は職を転々とし…」みたいにネガティブな意味で使われがちですが、私も地味ながらこれまで様々な仕事をしてきました。高校時代の生協のバイトに始まり、オフィスビルの清掃員、アパレル店員、パンとケーキと喫茶の店で売り子、持ち帰り寿司店の調理販売、パターン事務所の小間使い、テレクラの受付センター(クビ)、雑誌図書館業務、田舎のOL(なう)。

 

地下鉄サリン事件が起こった年に上京した私が東京で初めてしたバイトは八幡山の持ち帰り寿司店の調理販売スタッフでした。店頭の貼り紙を見て面接を受け、福島なまりの店長に「んじゃあ、ぬまりさん、いづがら来れっかなあ?」と言われ、すぐに働くことが決まりました。

素朴で人のいいタレ目のおじさん店長、「パチンコは三千円分しかやらないって決めてんだァ」というパートのおばちゃん、動きに無駄がなく常にはつらつとしているパートのおばさん、実家が老舗寿司屋なのになぜか持ち帰り寿司店でバイトをする女子高生(遅番)、そして夜学に通うファッション大好き貧乏学生の私。それがこの店の構成メンバー。

お寿司は各店舗で仕込んで一つ一つ手作りしていました。まずは酢飯づくり。大釜で炊いたほかほかのご飯をガバッと寿司桶(飯切)にあけ、寿司酢をまんべんなく回しかけ、大きなしゃもじで素早くシャリ切り(かならずむせる)。それを平らに広げてよく冷ましてから使います。店長は主ににぎり寿司を担当、私とパートさんで巻物や松花堂弁当、いなり、ちらし、バッテラなどを作りました。慣れてくると「シャリ60g」がどれぐらいか手の感覚でわかるようになりました。他の店に手伝いに行ったり、仙川にある桐朋学園の学祭で売り子をしたこともあります。作ったり売ったりするのはなかなかに楽しく、みなさんもいい人で、調子よく真面目に働いていました。

 

 

バイトを始めて間もないある日、20代半ばの瘦せ型でそこそこイケメンな白人男性がツーっと店の前に自転車を停めました。パートのおばちゃんが小声で「わさび多め、来たよ!」とささやきます。ん?ん?と思っていたらその白人男性はネギトロ巻きをオーダー。

そして一言「ワ サ ビ 、オ オ メ 」

かしこまりましたー。ネギトロ巻きの中にワサビを多めに入れて巻けばいいのかな?と思っておばちゃんに聞くと、どうやら別のパックにワサビだけを入れてほしいとのこと。彼の期待する「多め」がどれくらいかわからず、一般的な「多め」を提示したら「oh…、話ニナラナイ!」という顔をしている。「このくらい?もっと?」と見せながら増量していって彼が「オーケー」と言ったのは、大人のにぎりこぶし一つ分くらいの量でした。お寿司と別に、小さいパックにみちみちに詰まったそれを渡すと彼は満足そうに帰って行きました。その後もワサビオオメ君は3日に1回は来て多めのワサビを要求し、私たちは黙ってそれを提供しました。あのワサビ、どうするんだろうね?と思いながらも私たちは一度も彼にたずねませんでした。

 

 

またある時、そちらの筋の方かも?と思ってしまうような、60歳ぐらいの強面のおじさんが来店。一瞬でピリッと緊張感が走ります。失礼のないよう皆いつも以上にカッチリした敬語と低姿勢で対応します。おじさんは注文する時サッと指を差して「これ」とか「それ」しか言わないので、こちらは見間違えないように必死です。こちらでよろしいですか?と確認してもムスっとして頷いたか頷いてないのかわからないので、最初に「これ」と差す指の先を見逃さないようにしないといけません。待つのがお嫌いなのか注文するのが面倒なのか、いつもショーケースに並んでいるものの中からお買い上げいただいた気がします。日替わりのにぎり寿司が多かったかな。

強面おじさん何度目かのご来店。みな緊張で顔をこわばらせる中、その日ちょっとテンションのおかしかった私は、わざとらしいほどの笑顔とアホみたいに明るく大きな声で「ぃいらっっしゃいませぇ〜〜っ!!」と飛び出して行ってみました。するとおじさん、私の勢いに圧倒されたのかガッチリ固まっていた顔が崩れて「ふっ」て笑ったんです。笑った!笑ったよね、おじさん! 照れなのか、ちょっと顔も赤らんだような。膝カックンみたいな感じですよね、不意打ち。私もなんかちょっとエヘッと笑ってしまいました。

それからおじさんの硬くこわばった心は軟化し、私たちと笑いながら世間話できるまでになりましたとさ。めでたしめでたし。

とはなりません。ならなくていいんです。次の来店時にはまた元どおり。でも以前とは少し違う、すがすがしい感覚がありました。「おじさんはきっと不器用なだけなんだろうな」と思いながら私はまたカッチリした敬語と低姿勢で接客を続けました、笑顔で。

 

 

毎日、午前11時半ごろに納豆巻き二本を買いに来るおばさんがいました。パートのおばちゃん達は「納豆巻きおばさん」と呼んでいました(そのまんまやんけ)。私たちは納豆巻きおばさんが来る10分前に納豆巻き二本を細巻き用のパックに詰めて用意しておきます。10分後、自転車に乗って納豆巻きおばさんがやってきました。60代半ばぐらいでしょうか、チューリップハットみたいな帽子をかぶりメガネをかけた大柄なおばさんが無言で店頭に立ちます。納豆巻きおばさんは一言も発せず小銭を差し出し、暗黙の了解で用意された納豆巻き二本と引き換え、取引は終了です。レシートはいりません。
福島なまりの店長はいつも穏やかで機嫌がよかったので、天気のよい日などには納豆巻きおばさんに「いやあ、今日はいい天気ですねえ」なんて話しかけていたような気もするけれど、それに対して納豆巻きおばさんはほとんどわからない程度に微笑して軽くうなずくだけ。基本的に会話はないのですが嫌な感じは全くしませんでした。納豆巻きおばさんがどこに住んでどういう人なのか私たちは何も知らなかったけれど、毎日顔を合わせていたので愛着のような仲間意識のようなものが芽生えていました。

いつものように納豆巻き二本をスタンバイしていたある日、午後になっても納豆巻きおばさんは現れませんでした。「どうしたんだろ」「こんなこともあるんだねえ」とパートのおばちゃん達と言い合いながら、まあ、また来るだろうと次の日も納豆巻き二本を用意して待っていました。
ところが、納豆巻きおばさんは来ません。その次の日も来ません。とうとう私たちは納豆巻き二本をあらかじめ用意しておくことをやめました。
「心配だねえ」「入院とか、家の中で倒れてたりしないといいけどねえ」「家も名前も知らないしなあ…」

 

二週間が経ちました。大きな体を揺らしながらメガネのおばさんがゆっくりと自転車を漕いで近づいてきます。
「納豆巻きおばさん、来たよ!」
店内が、ちょっとだけ沸きました。みんな、ホッとしました。うれしかったのです。

「いらっしゃいませ」
それ以外、私たちは何も言いません。
「どうも、おひさしぶりです」と言いたげな納豆巻きおばさんと、「お元気そうで安心しました」と言いたい私たちの気持ちがバチッと通じあい、言葉を交わさずとも目と目で会話ができたような感覚がありました。
そしていつものように、小銭と納豆巻き二本を交換します。レシートはいりません。
「ありがとうございました」
遠ざかる納豆巻きおばさんの大きな後ろ姿を見送りながら、パートのおばちゃんが「生きててよかったね!」と言いました。みんなウンウンうなずき、それぞれの仕事に戻っていきました。

 

 

名前も職業も知らないし、聞かない。踏み込んで話もしない。けれど頻繁に顔をあわせて、相手が欲しいものだけを提供しお金をもらう。言わなくてもわかってますよ、の感じ。しばらく来ないと、どうしたのかなあと思う程度には心配もする。そういう常連さんたちとの微妙な関係は、なんかくすぐったくて、面白かったなあ。

 

(ふと、みなさん今どうしてるかなって想像してみたのですが、納豆巻きおばさんも店長もパートのおばちゃんも当時60歳を過ぎていたはずで、もしかしたらもう亡くなっているかもしれないんだよなあ…と思ったら急に寂しくなってしまいました)


※写真と文章は関係あるようで、ないです。