日記

2020-09-30

頭が冴える時、というのがたまーーーにあって、どうも今その時らしいのだが、いつもこのぐらい回転してくれればいいのにね。

なんだか色々考え事が進み、手書きが追いつかないほどノートに書き込みをした。多分明日の私はボンクラなので、これを見ても「はあ?」ってなると思うけど

維持するには毎日毎日気が進まなくても考えたり学んだり書いたりすればいいんだよね。わかってるんだけど。眠いよね。

疲れてると、なーんかごろごろしてYouTubeでASMR動画なんか見ちゃって、いつの間にか寝てしまう。日が変わる前に寝ちゃうから起きたら4時とかで、それはそれで楽しくて、そのまま起きて何か読んだり考え事したり書いたりすることもあるけど、結局6時半ごろまた眠たくなってきて寝て、8時に起きていつも通り支度して出かけるってことになって、なんだかなあ、もうちょっと時間をうまく使えないもんかね。

眠くなるやつ

私が好きなASMR動画って、基本的に顔出さない/しゃべらない/途中に広告が入らない/最低40分ぐらいの長い動画、ってことになってるんだけど、この方の動画は顔出しでずっとしゃべってるけど気にならない。

ASMR動画ばっかり見てたらおすすめに上がってきた動画で、そもそも「Reiki」っていうのがなんだかよくわからないけど、自分の顔の近くで手をひらひらされているような気分になれて気持ちがいいです。わりとすぐ眠くなっちゃう。

さて寝よ。

日記

2020-09-24

芸大の学祭に来ている。学生が集まっておしゃべりしたり、絵を広げて何か言い合うような場なのだろう、テーブルが連なる学食風の空間で、私はずっと画集を見ている。古い日本の画家らしいが全く知らなかった。モチーフは和風だがヒエロニムス・ボスの絵に似ている。十数年前にやめたタバコを吸ってしまう。向かい側の長テーブルに父の姿が見えたので知らんぷりをした。

芸大を出て歩いていると、歩道の真ん中に黒いリュックが落ちていた。半分口が開いていて中に葉書のようなものが見える。太い筆ペンで力強く書かれた宛名には、親戚の男の子の名前が書かれてあった。さっき芸大受験や学費のことなど、学生たちにしつこく質問していた子だ(ちなみに学費は全部で2000万弱らしい)。道端に半分開いたリュックを放り出したまま忘れてしまうなんてことがあるだろうか…と奇異に感じないではなかったが、とにかく家まで届けなくてはと思う。途中、不自然に冠水しているところがあり、おじさんが首まで水に浸かって「おーい」と助けを求めていた(あとで、ふざけていただけだったとわかる。立ち上がると水はせいぜい膝のところまでしかなかった)。この先も道路が冠水しているため、まっすぐ歩いて通り抜けられないことを知る。右側にゆるくカーブした道を行くと先が大きくふくらみ、そこに駅が見えた。小さな駅前広場ではひとびとが、局所的に大雨が降っているポイントでずぶ濡れになりながら笑顔で記念写真を撮っていた。私はそれを撮影しようと思ったが、カメラを出すのに手間取ってやめた。そばに、とても大きなポプラの木があり思わず見上げる。晴れているのに、ところどころ雨がさーっと直線的に降っている箇所があり、そこだけがガラスのように鋭くきらめいている。ここにずっといてもしかたがないので電車に乗ることにする。えーと…、大きな路線図も何もなく、手書きで駅名が記された紙が6枚ほど貼られている。どれも知らない駅名ばかり。八幡山まで行くにはどうすればいいのか。まあ適当なところで降りて考えようと思い、いちばん近い「紙魚」行きの切符を買うことにする。紙魚駅前の映画館ではいま貴重な映画が3本上映中だとチラシが貼ってある。どんな映画なのだろう…とぼーっとしていたら、どうやら切符売り場の並び方を間違えていたらしい。苦笑いで他の人に先をゆずる。なんとか無事に切符を買ったところで「リュックの持ち主がいる親戚宅に連絡しておいたほうがいいな」と気がつき、電話をしようとスマホを取り出す。電話帳の「ヒサコさん(リュックを落とした男子の母親)」の名前を確認したところで目が覚めた。

9月24日 朝6時

日記未満

2020-09-19

正しく指摘したほうの立場が危うくなる、ということがこの世にはありますね。

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飲酒ブログと秋の空 私は自分をふやしたい

2020-09-18

某所で飲酒ブログを始めている。下半期から「自分をふやす」ことをしたくなっているのだ。私はすぐ一つの場所で息苦しくなってしまうので、あちこち息を吸える場所をつくって、そこを転々とすればいいじゃないか。というわけ。

人に見せるというよりは自分の記録である。私はノートを規則正しく使うことが苦手なので(思いついたことをぱっと開いたページに書いてしまう)、自分で管理しようと思わずにおとなしくブログサービスを利用したほうが得策だ。

ある程度たまって面白かったら教えたり何かしらに活用するかもしれませんが、今んとこはまあ探さないでください。なんの前触れもなくぱたっと飲酒をやめてしまう可能性だってあるし。

こないだの飲酒時、完全に酔った状態でツイッターに「音楽やりたい」「映像もやってみたい」「コラージュもまたやりたい」と連投してしまったんだけど、翌朝、なんでそんなこと書いたんだろ、、となってしまった。コラージュは再開しようかなとゆる〜く考えていたものの、音楽や映像に関しては今まったくやっていないわけだし、どうすればいいのか何も見えていない状態で。映像なんて今まで全くやったことないわけですよ。興味を持ったことすら。それでなんでそんなこと思ってツイートまでしたのかなあって。

私は「まず未来が先にある」という考えなので、未来から「におい」みたいなものが漂ってきて、それをキャッチできた時、予感がしたり、今まで手に取らなかった本を手に取ったり、何かが妙に気になり出したり、ということがあるのだと思っているのです。今回のこれは、飲酒によって五感が研ぎ澄まされ、遠くにある未来のにおいまではっきり感じ取れてしまった、ということかもしれない。

スピってません

青森に来て何年だっけ?と思い、昔のブログをさかのぼって読んだりしていた。まだ2010年ぐらいのところを読んでいる。いや〜、ぎょうさん書いたねぇと思う。気に入ってよく行っていたカフェや古書店はもうない。古くてかわいいケーキ屋もない。当時遊びに来てくれた友達はみな私とは全く別の生き方を自分で見つけ、家族をつくった。

私はなーんにも変わってないな。そのことを考えると焦燥感で脳から汗が吹き出しそうになったりしてたけど、もうなんかね、そういうのも落ち着いちゃった。

なにかにならなければ、なにかを成さなければ、とずっと思いつつ、どうしてもそういう気持ちになれなかった。一つに的を絞れないという意味で、私は本当は欲深いのかもしれない。

自分をどこかに固定しておくのがむずかしい。○○の人、みたいなわかりやすい分類も記号も肩書きもない。ないことで不安にもなるけれど、ただ型にはまりたくないだけかもしれない。

ここまできたら、とことん型にはまらないでいようと思う。さらに今わたしは自分をふやそうとしている。たくさんの人格がてんでんばらばら、統率する者もなく散らかっていたっていいじゃないか。それぞれが好き勝手に動き出して、どこかにいる私の中心が「やれやれ」とおもむろに出てくるぐらいがちょうどいい。弱々しく号令をかけ、みんなが揃ったら酒でも飲もう。

日記

2020-09-13

昨日の日記でキーキー言った人の夢を見てしまって私はほんとうにわかりやすいな。顔もよく知らない人の夢よく見れるよね。

一場面しか覚えてないけど、日当たりのいい喫茶店で、なぜか私の同級生(女)も同席していて、私たちは初めて会ったという体で、簡単な自己紹介などしながら、趣味が合いますねみたいな和やかな雰囲気で、名刺交換や連絡先交換なども特に行われずに私以外の二人はこのあと用事があるとかで早々に別れたのだったが、私は「やべ、昨日の日記にこの人の悪口書いちゃった、名前で検索されたら簡単にブログ見つかっちゃうから削除しなきゃ」っつって削除する、という夢。

なんかこの人ちょっとなあ…と思う人でも実際に会うと「悪い人じゃないな」みたいなりますよね。夢の中でもそういう感じになってマジか、と思いました。

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日っキーーーーー!!!

2020-09-12

なんとなくいけすかないと思っている男性(そんな人フォローしなきゃいいのにね)のツイートが嫌でも目に入ってきて、私が行きたくても行けないところへばんばん行きまくって写真を撮りまくってアップしまくってそこそこ「いいね」がついていて、キーーーーー!!!となっている。撮るモチーフが似ていることも私がヒステリーを起こす要因になっていて、控えめに言って相当ムカついているのだ。今ごろ発見したくせに第一発見者みたいな顔で収集したものをシリーズ化していてそれもムカつく。絵だけ描いてろよ。

ただの嫉妬です。性格悪いです。わかってます。でも悔しい。持ってるくせに持ってないみたいに見せてウジウジしているところも嫌いだ。恵まれてるくせに何も持ってないような顔をするなよ。たった一人で惨めで寂しいなんて二度とほざくんじゃない!!!キーーーーー!!!

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日記

2020-09-06

私の写真には人間がほとんど写らないわけだけど、それはつまり私の世界に人間がいない、ということかもしれず。

ゼミの先生に言われたことは、「あなたが撮ると生き物が作り物のように見えてくるし、人形や作り物が逆に生き生きとして見える」のだと。

生命を持つものの生命が消え、生命を持たないものに生命が宿る。

ちょっと怖いね。宇宙から来て初めて地球に降り立った人が撮った記念写真のようだ、とも言われた。そう言い表せる先生がすごいよね。でも面白いでしょ、宇宙人目線なんだって。地球人じゃないらしいよ、私。

なんで急にこんなことを書いているかというと、また飲酒して酔っているわけなのですが、この、骨格だけが立ち現れる感じ、やめられないですね。こんなヤワなレモンサワー一杯でこういう状態になれるのほんと特技としか言いようがないよね、飲んべえの人には鼻で笑われそうだけど。

飲酒の話はもういいゼ

宇宙人目線って言われてなんかドキっとしたし、ちょっとわかるなと思ってしまったことも事実。どうも私は地球を知り尽くしてる感じではないんだよね。初めてではないけどまだ浅い感じ。だっていちいち感動するし驚くし珍しいなと思って見てしまう。古い慣習を守ることに懐疑的ですぐ「はぁ?」って思うし、どんな変化も楽しみでしかないし。輪廻転生というものがある前提で書くけど、自分は何度も地球に生まれて地球人やってる人ではなさそうだ、という感じはする。あ、これ酔ってるから書いてるわけじゃないんです。この考えというか「そうだろうな」という思いは昔からあるので。だって私たちが初めてここに生まれたって仮定したらおかしなことばかりじゃない?死んだらすべてが終わりだとしたら説明できないことだらけだと思うんですけど。

そもそも、私がまだ幼稚園にも行ってない3歳ぐらいの記憶なんですけど、前世の記憶っていうか「あ、またこういう世界に来ちゃたんだな」みたいな、「あ、また生まれちゃった」みたいな、そういう感覚になったことを覚えていて。親がどっか出かけてて私ひとり家にいて、居間のソファでうたたねしてしまって、ぼんやり目を開けた時、テレビや戸棚や天井の境目などがくっきり生々しく見えてきて、ああ「物」が見える、色が見える、形が見える、私はまたこの世界に来てしまったんだなと、まるで成人男性が思うような思い方で、落胆のような諦めのような、ちょっとだけ嬉しいような奇妙な気持ちがしたことを覚えていて。なんせ3歳ぐらいって語彙も貧弱だし言語化がうまくいってないんで、3歳当時の思い方ではもちろんないんですけど、たびたびこの出来事を忘れずに思い出しているので、今こうしてあの時の映像を思い出しながら言語化できているわけです。そのぐらい、子供心にも奇妙な感覚だったので。

しかしさあ、地球ってヤバくない? こんなきれいなとこ他にある? すごいとこに住んでるんだなっていう実感がすごいよ私は。

そういう自然の風景写真が増えてきましたね。コロナの影響であんまり遠出できないから地元を撮るしかないんだけど、このことが何か私に「ここを撮らないでどうすんだよ」というメッセージを伝えているような気がして、生まれ育った場所を見直していくことがライフワークにならざるを得ないというか、顕在意識としては都会の街を撮りたいと切望していながら、潜在意識では自分のルーツと向き合いたいのかなって。ルーツっていうのは青森のことじゃなくて、なんていうか、生命のルーツみたいな…。最近の私の写真は、街歩きして面白い看板撮るとかいい感じの喫茶店撮るとかそういうのとは全くチャンネルが違う気がしている。

もっと根源的なところにたどり着きたい。表層ではなく。もっと血なまぐさくて叫び出したいような身を切られるような恐れおののくような震えが止まらないような。

だとしたら私にはもっと強い覚悟が必要だ。それにはまだ正直恐ろしいと思う自分もいる。恐ろしいけれども、私はいずれそこにたどり着く気もしている。添加物やお砂糖や人工着色料もりもりのSNS映え写真はもう全然見てない。ただの毒だと気づいた。じゃあお前の写真はなんなんだよと思うけど、決定的に違うのはやっぱり過剰に手を加えないことでしょうか。自分の見たいようには改竄しない。ただあるように撮りたい。(カメラの性能も良くなっているし、よほどテーマに独自性がなければみんな一緒の写真になってしまうから現像で個性を出すよりほかない、という言い分もある程度は理解している)別にストレートフォトがいいとか悪いって話じゃなく、単に私は嘘が嫌いなんです。なので、ぼけぼけSNS写真とかそういううわべだけの世界に背を向けて私は己と世界と写真を深く掘り下げていきたい。焦る必要はない。時間をかけたっていい。写真とはそういうものだから。

実は新しいカメラをまだ買えていない。これ!というのが見つからないのだ。ほぼ丸腰状態の今だからこそ、撮れる写真が少しずつ変わってきたということはある。今まで目を背けていたものにレンズを向ける時なのかもしれない。新たにどんなカメラで、どんなレンズを向けるのか。どうもデジタルじゃない気がしていて、デジタルカメラを選ぶ気持ちに全くなれない。逆に興味があるのは中判とコンパクトフィルムカメラの二台使い。フィルムと現像代に関してはあまり苦痛と思っていないところがある。かえってデジタルのフルサイズ機なんか買っちゃったらデータ重いし管理も面倒だし「撮れすぎちゃう」し、うーん…と気が重い。どうしたもんかいのう。

日記

2020-09-06

わたしたちは混ざり合って世界をつくっている。ともに世界をつくる者たちである。悲観しすぎると悲しい世界が出来上がる。いろんな人が居ていいはずなのに、一色に染まってしまったら世界はもう終わりではないのか。

それとも…