May you live with ease

2022-04-16

この時代に正気でいられるほうがおかしいよ。

と書いて、泣きながら酔っ払っていたら、ずっとインストだった音楽が突然

May you be safe

May you be happy

May you be healthy

May you live with ease

と話しかけてきた。

*

Devendre Banhart & Noah Georgeson「Sky Burial」

世界

2022-04-16

あの人にいやなことをされた過去があったから今の私になれた。とか、

あの苦労があったから強くなれた。

などと私が思うのは勝手だが、人から言われたくはないし、私は「あの人」や「あの人のおこない」を決して許すことはない。

だから、私にいやなことをされた人も私を許さなくていい。

どの界隈だろうと性暴力はあってはならない。地球上から性暴力がなくなってほしい。やっと声をあげられるようになったとよく言われるが、被害者はなぜこんなにも怒りや悲しみ、恐怖を抱え込まねばならないのか。傷ついた魂は傷ついていないふりが上手になる。覆い隠して遠くに追いやってしまえば見えなくなって都合がいい。忘れてしまえば平気で生きられる。でもそれはふとした拍子にあらわになる。昨日のことのような鮮烈さをもって暴力は今また私の目の前に迫って来る。あの時「小さな子」を助けられなかったことを悔やんで私は泣く。あの時の小さな子は女を捨てて生きること、決して他人を信用しないことを学んで大きくなった。それはとても悲しいことだ。私は私の世界を変えた暴力を許さない。思い切って打ち明けた時に「よくあること」と返してきた人たちのことも許さない。

いまだに街や人を破壊し、血を流して戦うなんてどんな弱虫のすることだろうか。あきれて涙もでない。私たちが生きている限り、私たちは地球をこわし続けている。誰かのせいにして溜飲を下げる人たちも愚かだ。これは、紛れもなくわたしたちが作り出した世界だ。

こんなこと

2022-03-24

絵の教室へ通っていた頃、私よりもずいぶん長くそこに通っていた女性が「もうこんなことをしていられないから」と言ってやめていったことがあった。最後の日に喫茶店でささやかなお別れ会を開いたのだが、彼女の心はもうこの場にないような感じで、さっさと帰りたそうだった。なによりも気になったのは、私たちをうっすら蔑むような気配だった。

「もうこんなことをしていられないから」の「こんなこと」に楽しく興じたり目標達成のために努力している人たちを前に「こんなこと」と言ってしまえる感覚に冷え冷えとしたものを感じたし、これほど長く在籍して先生からの信頼も厚く、人一倍頑張ってきただろう彼女が、長い悪夢から覚めたかのように古巣を足蹴にして飛び出して行ったのはどういう気持ちだったのだろうか。

彼女が出ていってしばらくして、先生がぽつりと「あの子にはかわいそうなことをした」とこぼしたことがあった。もっと上の技術を教え込み、育てた上で巣立たせることができなかった、というニュアンスだった。果たして彼女は画家を目指していたのだろうか? 「先生に」「画家にしてもらいたかった」だけじゃないのか。

役に立つ資格を取って、よりよい会社に転職できただろうか。長年打ち込んできた絵を切り捨てた先にどんな景色が見えたのだろう。

齋藤さんのこと

2022-01-19

NHKプラスで見ようと思っていたドキュメンタリー番組が見当たらず、調べたら配信期限が過ぎていた。なあんだと思い、ほかに面白そうなドキュメンタリーは無いかサムネイル画像を見る。『ETV特集 選「ドキュメント 精神科病院×新型コロナ」』というのが目に留まった。どうやらコロナ禍の都立松沢病院に一年間密着取材したものらしい。余談だが、私が東京に住んでいた頃、職場は松沢病院の近くにあった。今も可能かはわからないが、昼の休憩時間に、一人または同僚たちと病院の敷地内の芝生やベンチに座ってパンやお弁当を食べたりした(桜の時期はささやかなお花見をしたこともある)。時間はゆったりと流れ、外を出歩くことのできる患者がずっとぶつぶつ呟きながら歩いていたり、一点を見つめてぼーっとする人、ギターを弾く人など様々だった。彼らと同じベンチで隣り合うこともあった。何も話さなければ話さないし、何か話しかけられたら返したりした。

番組の内容はきっと深刻なんだろうなとは思ったが、「今あの辺はどうなっているのかな」ぐらいの興味で、わたしはそれを見始めた。

当時の院長、齋藤正彦さんの顔が映し出された瞬間、「あ」と思った。見たことも会ったことも、名前すら知らない人なのに「あ」と思ったのだ。「いい人の顔をしている!」。

ブワって感じが一番しっくりくるのでそう書くけど、齋藤正彦さんの顔を見て私はブワっと泣いた。知らない人の顔で泣く人なんているのか。ここに、います。

数日経つが、いまだにそれがどういう心境なのか自分でもよくわからない。ドキュメンタリ番組としても良かったし(良かったという言い方はどうかと思うが)、コロナで浮き彫りになった精神医療の問題点や患者の人権がないがしろにされている現状の問題提起としての意義もあったと思う。その中でも齋藤さんは人一倍ブレない信念を持っているように見えた。真人間という感じなのだ。真ん中に、てこでも動かないどっしりと大きな「愛」が根を張っていて、それに基づいてしか行動しない感じ。それが当たり前すぎて自分でも全く意識していない感じ。ありとあらゆる行動や発言にデフォルトで愛が織り込まれているのにあくまでもサラっと風のような態度であること。愛に基づかないものに対しては静かに怒りをあらわすこと。状況をよりよくするにはどうすればいいのか常に考える人であり、かといって独りよがりにもならず、意見を求め、話を聞き、みんなで考えるようにする感じ。一つ一つの命を同じものとして尊重する感じ。

いや、正直、番組ではここまで映しているわけではなかったよ。これは私が勝手に感じ取ったこと。実際の齋藤さんがまるきり違う可能性もある。でもなあ、遠からずだと思うよ。まっすぐだけどカタブツではなくユーモアもあって、クレバーで、さらに常に勉強もしていて、現場も見ていて、バランスも取っている…

私、齋藤さんの知り合いなの?笑

なんなんだろうね。わかんないです。顔を見て一瞬で「ありがたい」と思ってしまった。神のような人だ、と崇めるわけではないんだけど。しかしさ、そんなことってあるかね? 一目見て涙を流すなんてことがさ。(あったのです)

ネットで拾った齋藤さんの写真をスマホに保存してしまった。精神安定作用がある。さすがに壁紙に設定するまではしないが、つらくなったら見ようと思っている。(齋藤さんフォルダを作っておくこと!)間違った方向に向かいつつあるとき、正しい道に戻してくれる人はこんな顔をしているような気がする。

顔写真を貼るわけにもいかないので「松沢病院 齋藤正彦」で検索してみてください。いい顔でしょう。ただし松沢病院HPの「院長あいさつ」には別の人が表示されていると思います。なぜなら齋藤さんは2021年3月に院長を退任されて、なんと同病院の一医師として最前線の現場に立っているから! ねえ、そんな人いる?

いるんです。

ほころび日記

2022-01-17

突然ダーニングがやりたくなり、中細の毛糸をいくつか買って帰宅。年賀状(いつの…?)をやらなくてはいけないのにダーニングを始めてしまう。

そのために捨てずにとっておいた穴のあいたウールの靴下を電球にかぶせ(ダーニングマッシュルームというものを使うらしいのだが持っていないので私は電球を使う)、とじ針に毛糸を通して穴のまわりをぐるりと並縫いし、ほぼ隙間なく縦糸を張り、糸を変えて横糸を上下交互に通していく。そうやってひたすら繕う。繕う。繕う。うんうん、これこれ。地味だけど楽しい。

かかとの修復ひとつめがおわった。なかなかよくできた。次はつま先。

同じように穴のまわりを縫い、縦糸を張り、横糸を交互に通していく。あれ、ここ間違ってる。やり直し。あ、また。ほどいてやり直し。心が乱れてくるのがわかる。どっと疲れがくる。目がしょぼしょぼ。肩はバキバキ。腰がずーんと重だるい。

「買おう」

穴のあいた靴下は捨てて、新しいのを買おう。こんなことをして何になる。ばかばかしい。貧乏くさい。インスタで見かける東京のお金持ちの女の子たちは絶対にこんなことはしない。もし彼女たちが今の私を見たら、無邪気に目をまんまるにして「なんで??」と言うだろう。意味ワカンナイ。どうしてそんなことをする必要が? 靴下ぐらい買いなよ、買ったげるよ!

フィジカルがメンタルに与える影響は決して小さくない。私は疲れている。気分転換と集中力アップのつもりが逆効果になってしまった。繕うべきは私の心のほころびかもしれない。

続きは明日にしよう。(やるんだ?)

何を言い出すんだ日記

2022-01-06

気づきすぎると消される、っていう恐怖が昔からずっとあって、実際に消された人たくさんいるじゃん、とも思っていて、何が言いたいかっていうと、完璧になろうとするなってことね。踏み込んじゃいけない領域っていうのがあるんだよ多分。いや、気づいてもいいけど言っちゃダメってことね。みんなほんとは知っているのに一生懸命知らないふりをしてゲームをしているのだから、そこでほんとのことを言ったらダメなんです。ゲームが終わっちゃうから。

新年に思う

2022-01-02

言葉にするとはっきりしてくることがある。「私は無能じゃない」と言葉にしてみた時、自分をないがしろにしてきたのは他の誰でもなく自分だったのだと気づいた。

「私はドキュメンタリ写真がやりたいのだ」と言葉にしてみた時、こみあげてくる熱い感覚があった。私たちは自分のことをあまりよくわかっていないのかもしれない。わかったような顔をして、私のことを一番わかっていないのはこの私だ。

酔っ払った時、だらだらとしゃべる癖がある。ひとりでに何やらオートでしゃべっている。酔っ払った頭ながら我に返って「今なんか大事なことしゃべってたな、あはは」と思ったりする。そういう時は飲み始めから録音すればいいのだと思う。酔った時の自分は宇宙とつながれるのだと勝手に思っていて、それは案外本当かもしれなくて、ていうか今もほとんど酔っ払っいながらこれを書いているわけで、年も明けて1月1日深夜、正しくは2日午前1時。何かをやり始めると、自分は全く何も達していないことに気づかされ、勉強をはじめるわけだが、何歳になってもこれはずっと続くんだろうなという気がしている。というより、何歳になっても学びたいことがあり、学べるということはとてもいいことだなと思う。私は何者でもなく、いまだにからっぽで、それが今は心地いい。気にしたこともあったけれど、こんな年齢にまでなってしまった今、気にすることもばかばかしくなってしまった。もうすでに私の存在がばかげているのだ。

自分の中の静けさと冷たさ。写真を見ればわかる。距離感。私は決して近づかない。踏み込まない。中に入らない。誰もこっちを見てない。私があなたを見ていないのと同じ。

酔うと詩的になっていけない。私的でもある。指摘はない。ああ、この調子で今年も行くのか。我ながらあきれる。あきれながら笑っている。笑いながら泣いている。感情が忙しい。私は今年もこのままで、自分のままで、生きます。死んだらごめんなさい。

距離が近い

2021-12-27

あの人元気かなあと思っていたら電話がかかってきた、なんてことは昔からよくあったが、最近そのテの現象が頻繁に起こっている実感がある。

ある人のツイートを見て「へ〜、今こんなことしてるんだあ、いいね」とか思っていたら、私が上げた写真ツイートにその人からピコン!と「いいね」が来るとか。物理的な距離や時間を超えて、テレパシーの類なのかはわかんないけど、心の距離みたいなのが近くなってるんじゃないかなって。

つながりたい人とつながる速度もはやくなった気がするし、願えば叶うことも多くなった気がしている。世の中はずっとシンプルで、自分がまっすぐでいれば、思いはまっすぐ誰かや何かに届く時代なのかもしれない。