寮を出る日

2019-01-28

時々、寮生活をしている夢を見る。もう5〜6年になるだろうか、おそらく同じ寮が継続的に出てきている。わたしはその寮の中を歩いたり、誰かと話したり、夜明け前の青白い部屋で一人テレビを見ていたりする。そして何かを探したあと簡単な身支度をして、まだ明けきらぬ朝の透明な空気の中へ一歩踏み出す、というような夢だ。それが何を意味するのかわからないし、パラレルワールドってやつかもしれない、と想像してみても頭がぼんやりして答えは出ない。ただ何年も同じ寮がたびたび夢に出てくる、というだけのことなのだ。

ウン十年前に一年間だけ、実際に寮生活をしていたことがある。場所は札幌。二十歳前のことである。「若宮寮」という、一目で女子寮だとわかってしまうような名前の木造二階建て。寮生は14名ほどいた。入ってすぐの部屋には30代の寮母さんと4~5歳の娘が住んでおり、そのほかに数部屋。突き当たりは共同のお風呂場。トイレも共同で一階と二階にひとつずつ。部屋は8畳ほどの二人部屋で、二段ベットとストーブと小さなキッチンがついていた。私の部屋は二階の一番奥。廊下には黒電話が一台あり、リーンリンと電話がかかってくれば帰寮している誰かが取り継ぐ。「◯◯さん電話だよー」「はーい」。

そういえば毎晩同じ男から卑猥ないたずら電話もかかってきていた。「ねえねえどんなパンツはいてんの?」、無言で切る、またかかってくる、「しつこいよ!」切る、かかってくる「ねえねえ」、「ちょっとアンタなんなの?」切る、「ねえねえどんなパンツはいてんの?」、ガチャンと切る、かかる、切る、ねえねえ、切る、どんなパンツ、切る、はいてんの?、切る。

寮生活はなんとなく居心地がわるかった。二段ベットに占領された二人部屋で、ドリカム大好きな元ヤンの純子ちゃん(通称じゅんじゅん)と相部屋。毎朝うれしくも楽しくも大好きでもないドリカムの歌で起こされた。寝ぼけまなこでタバコに火をつけ、朝のコーヒーを飲みながら二人でポンキッキーズを見た。

じゅんじゅんは自他ともに認めるヤリマンで、昨日は誰それとやった、誰々とは別れた、という話ばかりしていた。八百屋でバイトをしていて料理と編み物が得意。毎日せっせと弁当を作り、売り物と見まごう出来のカウチンセーターをまたたく間に編み上げた。節約と貯金も趣味で、バイト代のほとんどをしっかりと貯め込んでいた。とにかく早くいい人を見つけて結婚したいらしかった。誰彼かまわず寝るのは、「この人だ!」と思える人を必死で探していたからかもしれない。と今なら思えるけれど、私はフットワーク軽くやりまくれる彼女をうらやましいと思いながら、うっすら軽蔑もしていた。

私とじゅんじゅんは、ことごとく趣味や性格が合わなかった。ヤリマンという以外は堅実で古風な彼女に対し、私は世間知らずな甘ちゃんでファッションと本と音楽にしか興味がなかった。人と接する仕事がしたくなくて駅前のオフィスビルで清掃のバイトを黙々とやった。威勢と愛想の良さがものを言う八百屋とは対照的だ。チェックのネルシャツに色あせたジーンズ、インディアンジュエリーを身に付けるじゅんじゅんに対し、私は食費とバイト代のほとんどをつぎ込んだヨウジやギャルソンを着ていい気になっていた。ドリカムが流れる部屋でパンク、ヒップホップ、インダストリアルミュージックをヘッドフォンで聴き、タウン誌でお得情報を収集するじゅんじゅんを尻目に、i-DやVOGUEを眺めた。JONIO(高橋盾)や2GO(NIGO)やヒロシくん(藤原ヒロシ)に憧れ、いつか友達になれると信じていた。将来の夢はどこか空疎で、毎日が楽しければよく、ただ流されるように生きていた。

最初の頃は「縁あって同じ部屋にいるのだし」と気を遣い合ってそれなりにうまくやっていた。二人で食費をシェアして料理を作って一緒に食べたり、月9を一緒に見たり、東急ストアで買ったお徳用アイスを分け合って食べたりした。そういうことが一つずつ減っていき、おのおの好きな時間に好きなものを調理して食べるようになっていった。もともと趣味や生活習慣のまるきり違う二人である。差異は少しずつ開いていって、やがて何処にも接しなくなった。私たちは学校でも寮でも必要なこと以外言葉を交わすことがなくなった。ある時、別の部屋のアッキーとじゅんじゅんが私の悪口を言っているのを聞いてしまったことがあった。「あの子なんにもしないで寝てばっかり」
わざと聞こえるように言ったのかもしれない。

寮生活では寝てばかりいるように見えたのかもしれないが、私は学校や遊びに忙しかった。一階の部屋の子たちと仲良くなって、深夜のクラブ活動や朝帰りの際に窓から出入りさせてもらったりした。当時から、家のことより外に気持ちが向いていたのだろう。刺激的で悪い仲間にも恵まれ、一年のほとんどを遊びに費やした。全くどうしようもない奴だと我ながら思うけれど、あの時めちゃくちゃにやったことを私は後悔していない。愚かだったけれど、面白いものをたくさん見た。無いものは自分たちで作ればいいことを知った。ゴミ袋でスカートを作り、ふとん綿でジャケットを作った。ハイブランドのショップには毎日のように通ったし、おばちゃん向けの洋品店や古本・古着・古道具屋は宝探しの重要なスポットだった。十代のうちに背伸びをして本物をたくさん見ておいたほうがいいと思う。何が良くて何が悪いのかを肌で感じること。それを知った上で選び取ること。当時見たり聴いたり経験したもろもろが、今の私の「感覚」を作ってくれたような気がしている。

ウン十年前に若宮寮を出た私はもうすっかり若くない年になってしまった。JONIOとも2GOともヒロシくんとも友達にはなっていない。刺激的で悪い仲間たちとも、もう誰一人つながっていない。あれほど好きだったファッション業界にも結局は進まなかった。その後色々な場所へ行き、色々な人と出会いまた別れ、色々なことがあった筈だけれど、全く何もなかったような気もしてしまう。

私はまだ「寮」を出ていないのかもしれない。
自分の精神年齢を二十歳ぐらいに感じてしまうのはきっとそのせいだ。