西新宿のこと

2018-03-21

どこに出すわけでもないのに「西新宿」というタイトルで書きかけていた一年前の文章をデータ断捨離中に見つけたので貼り付けてみます。

『サブカル・スーパースター鬱伝』という吉田豪さんの本を読んでいたら、P119のみうらじゅんさんのページに、ポール牧さんがサイン色紙によく綴っていたという「ドーランの下に涙の喜劇人」という言葉が出てきて、ふーんと思いながら「そういえばポール牧さんて西新宿に住んでたよなあ」と思い出した。私が二十歳ぐらいの時、西新宿にあった友人のアパートへ遊びに行く途中「ここにポール牧が住んでるんだよ」と教えられたマンションがあった。のちにポールさんは自宅マンションから飛び降りて亡くなってしまうのだが、飛び降りたのはそのマンションだったのだろうか。

などと考えていたら急に西新宿の街を見たくなり、ストリートビューで見ることにした。
しかしもう20年ほど前の記憶である。街だってずいぶん変わっているはずで、「なつかしい」などと思うことができるだろうか。

交差点に面したところに昔ながらのタバコ屋があったよなあ…と思って探してみた。

ここだここだ!


なつかしい。


見えにくいけど青い装飾テントに松葉商事と書いてある。松葉文具店も隣接していたんだな。大体いつも夜に通っていたので店は閉まっていることが多く、タバコは自販機で買っていたような記憶がある。


都庁こんなに近かったんだ。

松葉商事の名前でなんとなく検索してみたら、閉店を知らせる記事が出てきた。
コラムで紹介されたばかりの松葉商事「西新宿6丁目計画」のために取り壊しへ

「紹介された」というコラムが気になり読んでみた。雨宮まみさんが書いたものだ。
都会と下町、まるで違う二つの顔を持つ街「西新宿」
浮かび上がるまでの10年間、しっかりともがいた雨宮さんの愛しさとせつなさと心強さにグッときてしまった。良い文章。ブラジル館ってまだあるのかな、行ってみたい。

私は当時、東京の八幡山というところで一人暮らしをしながら代々木にある学校へ通っていた。そこから歩いていける距離に同じ学校の友人が住むアパートがあって、授業が終わってからよく遊びに行ったものだった。都庁や新宿中央公園、高層ビル群をくぐり抜け、コンビニや牛丼チェーン店、コインランドリー、銭湯などを過ぎ、あらゆる喧騒から逃げ切った辺りにそのアパートはあった。堂々たる近代都市風な街の隙間に、小さな昭和の住宅や昔ながらの商店がポコポコはまっている様子は風情があって好きだった。神田川へ続く遊歩道には素朴な遊具が備え付けられ、日中は子供たちが遊んでいたり、おばちゃんたちが井戸端会議をしていて、絵に描いたようなのどかさだった。

つづく!?

残念ながらここで途絶えてしまっています。一年前の私に続きを書かせたい。それは無理なので一年後の私ががんばって続きを書きます。(以下、過去のテキストに文体を合わせます)

友人宅は、お姫様っぽくて恥ずかしい名前のアパートの2階だった。「ここらへんのアパート仕切ってんのって893らしいんだよね、だからなのかわかんないけど、水商売風の人とか外国人労働者が多い気がする」と友人は言った。6畳ワンルーム、ユニットバス。キッチンは申し訳程度しかなく、部屋のほとんどがベッドとテーブルに占領されていた。その上さらにスニーカーやらフィギュアやら自作の絵だか作りかけの洋服なんかであふれていて、「あ、どうも」知らない人までいたりした。学校に近いこともあって常に誰かが遊びに来ている状態。お香やタバコの煙が充満する中でNirvanaをかけながらゲームをしたり漫画を読んだりデザイン画を描いたり、アイデアを出し合って何か作ったりもした。当時、テレビ東京で放映開始したばかりのエヴァンゲリオンを見た誰かが「このアニメ、超やばいんだよ!!!!!」と騒ぎ出し、「え〜?マジで?」と半信半疑で見た連中みんなでハマってしまい、夜通しエヴァ論を繰り広げたりもした。

結局その友人とは後に仲違いしてしまって今ではどこでどうしているか知る由もない。時々ふと思い出して名前を検索にかけてみるけれど、2時間ドラマの犯人の名前と一致するだけだった。本名で何かやるような人ではなかったから何も出てこなくても不思議はない。もう会うこともないだろうけれど、元気でいてくれればと思う。

私が田舎から部屋探しのために上京した朝、地下鉄サリン事件が起きた。浜松町のバスターミナルに着き、身支度や部屋探しの手はずを整えたあと公衆電話から相模原のおばさんに着いたよ〜と連絡すると「地下鉄に乗っちゃだめよ!大変なことになってる。近くにテレビがあるなら見て」と言われた。待合室のテレビを見ても何がなんだかわからなかった。私の東京暮らしは「地下鉄サリン以後」ということになる。田舎から出てきたばかりの私には、よくわからないオウムやサリンよりも「新宿」という街の方がよっぽど危険なイメージだった。けれど、その後12年間続いた東京暮らしの中で危険な目に遭ったことは特になかったし、一番思い入れがあってなぜか安心できて好きな街といえばやはり新宿なのだった。それも東(も好きだが)ではなく西。なにしろ西新宿にはでっかい「LOVE」がある。

東の賑わいとは違う、ビジネス街の整理整頓された雰囲気、足早に歩くサラリーマンたち、壮観な高層ビル群、通好みのレストラン、コンランショップ、下町風情のなつかしい街並み、新宿中央公園とホームレス、どれもが爽やかな朝の風のにおいを伴ってまぶたの裏によみがえってくる。

友人宅でワイワイやって朝帰りということも珍しくなかった。平日朝の西新宿を、これから仕事へ向かうサラリーマンと逆方向に新宿駅までぶらぶら歩くのがたまらなく好きだった。その途中、みんなでなんとなく高層ビルのそばに置かれた背もたれのない平らなベンチに座る。ビルと対面する格好で数人が横並びに座り、そのまま「あ〜」っと仰向けに上体を倒してみる。空が青い。眼下に広がる高層ビルが世界の果てまで続いていて、先端まで歩いていけそうな気がする。みんなで足をバタバタさせて「気持ちいいー!」

西新宿の平日朝の光景は、今思い出しても気分がすーっとする。あれからみんな、何かになれただろうか。何にもなれなかった私は、世界の先端に立つこともなく舞い戻ってきた田舎でこんな文章を書きながら、まだ足をバタつかせている。

(文中のスナップ写真は2011年に西新宿で撮影したものです)

楽団ひとりぼっち

2018-03-02


ほんとは寂しいくせに、どうして時々「一人になりたい」なんて思ってしまうんだろうね。

平日17時すぎ、某所の巨大駐車場にはぽつりぽつりと車が集まってきては停まります。それぞれがお互いを意識する必要のない一定の距離を保って。誰も降りようとはしません。まっすぐ家に帰りたくない人たちは車の中でしばし一人の時間に浸るのです。私がそうであるように、きっと彼らもそうなのです。みんなせいぜいスマホをいじるくらいで何をしているというわけでもなさそうです。少なくともリコーダーを吹いているのは「帰りたくない族」の中で私一人だけでしょう。

好きな曲に合わせて、キーもテンポも変えずに淡々とリコーダーを吹く。文字通りこれが私の「息抜き」なんだなって思います。最近の練習曲は、先日このブログでも紹介したテンテンコさんの「なんとなくあぶない」(とてもむずかしい)、伊藤ゴローさんの「November」これは以前からずっと好きで吹いていて、今はいかにきれいな音色で吹けるかが課題です。あとはニコの「Chelsea Girls」。昔、母がフルート教室に通うと言い出してビギナー用とはいえ十数万円するフルートを買ったもののうまくいかず放置していたものをもらい受け、酸欠になるほどよく練習した思い出の曲なのです。原曲キーを変えなくてもソプラノリコーダーの音域でカバーできるのでちょうどいい。明るい曲ではないけれど、いい感じに酔えます。歌い上げるような間奏部が奇跡的に決まると極上のカタルシスが得られたりして。

一人になりたいから車にこもってリコーダーを吹いていたはずなのに「合奏したいな…」という気持ちが芽生えてきてしまって困ります。小学生時代「ピアノを習っているから」という理由だけで、音楽発表会のために寄せ集めで結成される音楽部に駆り出されてキーボードを担当していたことがありました。素直な子供じゃなかった私は“仕方なくやらされています”という微動だにしない仏頂面スタイルで演奏。その様子が後輩たちには「クール!」に見えたようでしたが、私は内心口笛を吹きながらノリノリで「音楽チョー楽しい〜!」という気持ちでやっていました。

演奏した曲は、スターウォーズのテーマ、喜多郎のシルクロード、宇宙戦艦ヤマトのテーマ、ドヴォルザークの新世界より、瀬戸内少年野球団のテーマ(イン・ザ・ムード)など。キーボードの合間をぬってビブラフォンとかマリンバとかパーカッションとかなんでもやった気がします。

 

弾いていたキーボードはおそらくこれ。

その当時の最新機種で高かったのよと先生が言っていたこと、メーカーはローランドで間違いないこと、ジュピターという名前に見覚えがあること、オレンジ色がポイントカラーだったこと、かなり大きくて重かったこと、これらの記憶から考えて間違いないと思う。
余談ですが、キャスター付きのアンプに乗っかってシャーっと遊んでたら思いっきり倒しちゃって修理屋さん呼んで直してもらったことがありましたねぇ、何度も。

合奏の醍醐味はやっぱりそれぞれのパートで練習したものを初めて合わせる瞬間ですよね。私は今それがとてもしたい!

 

何年か前に十和田市現代美術館前の広場に「あまちゃん」でノリノリの大友良英さんが来てオーケストラ(大友さんの指揮に合わせて好きな鳴り物をジャンジャガ鳴らす)したり「あまちゃん」のテーマをみんなで合奏したんですよ、動画ありました、これです。

楽しかったなあ〜。よく見るとノリノリでマラカスを振る奈良美智さんも見えますね笑

 

翌年にも大友さんや奈良さんが来て盆踊りやったんですよ。

私は十和田市民じゃないのに津軽地区を代表して(?)市民オーケストラに参加しちゃいました。
事前に楽譜をもらって自主練し、ピアニカ持って当日一人で十和田に乗り込んだのです。
ちょっと寂しかったけど始まってしまえばものすごく楽しかったです。やっぱり合奏はいいな。

そんなに規模大きくなくていいから、また合奏したいよ〜、誰かやりませんか、下手でいいです私も下手なので! むずかしくない曲をガチャガチャやる感じの合奏がいいです。メンバー足りてないとこありませんか〜、楽団ひとりぼっち、行きますよ〜、鍵盤のついたものとリコーダーできます、打楽器もやってみたいし近所迷惑な声量で歌も歌えますよ、ぜひぜひ〜よろしくお願いします〜〜。

かつてわたしは白猫だった

2018-02-21

過去10年分の写真を整理し始めています。
これは青森市港町のあたりで撮ったと記憶しています。日付は2010年5月。
なかなかぎょっとする構図ですが、猫を撮るのに必死だったのでしょう。

 
当時は週に一度、青森市内の美術教室に通っていて(先生お元気かなあ)、帰りはあてもなくぶらぶら写真を撮り歩いていました。知らない街を散歩して写真を撮るのが楽しくてしょうがなかったんですよね、この頃。

 

さて、時は2011年。
twitterを始めるにあたり、アイコン画像をどうしようか悩んでいた私は、この白猫に決めたのでした。

ニャァ〜〜
ただ「白くてだるそう」という共通点だけで選んだような気がします。
どことなく、私が小5の時に死んだばあちゃんにも似ています。
アイコンに使ったのは割と短い期間だったと記憶していますが、その時これが私の「顔」であったわけです。
今見てもなんとなく他人に思えないな。

 


どの辺りだったかなあとgoogleで確認してみました。
やはり青森市港町でした。
中央にあるのが猫のいたシャッターです。
ちょうどその前に黒いものが見えますよね、これ、猫じゃないかな?

雪国の子供

2018-02-16

東京でたまに大雪が降ると、交通マヒや事故のニュースと合わせて無邪気に雪遊びする子供の映像が流れたりしますよね、私、あれが大好きなんです。坂道でそり滑りをしたり、雪玉をぶつけ合ったり、いびつな雪だるまを作ったり。雪国で暮らしていると雪なんて日常すぎてうんざりしてくるけれど、ああも無邪気に遊ばれると「そうだよなあ、雪は楽しいものでもあるんだよなあ」ということを思い出すのです。

小学生の頃、片道30分歩いて山の上の学校まで通っていました。歩くのは嫌いではなかったし、物語を考えながら歩いていたのでぜんぜん苦ではありませんでした。でも冬場はどうでしょう。きっと大変だったろうな、猛吹雪でも毎日歩いて通ったのだから…と、今大人目線で想像してみたのですが、子供の頃の私からは「べつに大変じゃないけど?」という返事がかえってきました。

確かに、寒い。こればっかりはどうしようもない。身動きが取れなくなって、どこかの家の軒先で友達とうずくまって猛吹雪がやむのを待ったこともあります。それでも、つらいとは思わなかったんですよね。「まあ冬だし」って感じ。スキーウェアみたいな上下綿入りのシャカシャカしたやつ(アノラックとスキーズボンと呼んでいた)を着込み、毛糸の帽子や耳当てもつけてフードをかぶり、温度で色や絵柄が変わったりこするといい匂いがする子供向けの手袋をつけ、中にボアが貼られた長靴(靴底に、ひっくり返すとスパイクになる金具がついてるやつ!)をはいていたから案外平気だったのかもしれません。

それよりも毎日考えていたことは、下校時にどんな遊びをしながら帰るかということでした。
山の上の学校から帰るわけですから下り坂です。それをいいことにツルッツルの路面をスケートリンクよろしくシャーッシャーッとすべりながら帰るのはまあ普通、ランドセルをひっくり返した上に飛び乗って即席ソリだ!ヒャッホーウ!(やってはいけません) なんてのもしょっちゅう、男子と雪玉をぶつけ合ったり、つららを食べたり、小さい雪玉をどこまで大きくできるか転がしてみたり、なにかしら遊びながら帰っていました。

いったん家に帰ってもあたたかい部屋でじっとなんてしていません。すぐまた外に出て、友達の家の近くにかまくらを作り、お菓子や漫画を持ち込んでその中で遊んだりしていました。そんなの、あったかい部屋ですればいいのになんでわざわざ? と大人の私は思いますが、当時はそれが楽しかったんですよね、だって雪でできてるとはいえ子供たちだけの小さなお城ですよ。楽しくないわけがありません。
もちろん雪だるまを作ったり、ソリやミニスキーでも遊びました。小さなバケツやゼリーの容器に、好きな色の絵の具を溶かした色水を入れて外に一晩置いておき、氷点下で凍った色とりどりの氷を取り出して並べ、きれいだな〜って眺めたりもしました。寒さなど、私たち子供にとって大したことではありませんでした。ほっぺを赤くして鼻水をたらし、手足にしもやけをつくりながら、飽きもせず毎日雪で遊びました。

私の通っていた小学校では「雪上運動会」なるものも開催されていました。競技はよく覚えていませんが、雪上サッカーをしたり、雪の中に埋められたミカンをみんなで掘り出した記憶があります。
また、冬の体育の授業には「歩くスキー」がありました。まあクロスカントリースキーですね。学校にスキーと靴が用意されているので自分のサイズに合ったものを装着し、校庭を抜け、裏山までの雪原や林を滑走し、到着してからはみんな思い思いに滑って楽しむことができました。ムカデのように連なって滑ってみたり、男子はジャンプ台を作ってジャンプしたり一回転してふわふわの新雪に飛び込んだりしていました。私の体育の成績はずーっと「3」でしたが、冬の体育はけっこう好きだった気がします。

吹雪の中をちょっと歩いただけで「寒い寒い寒い耐えられない雪ウザい顔痛い目開かない息できない寒い寒い寒い」と文句しか言えないヤワな大人になってしまいましたが、寒さに耐えうる精神力と過酷な状況をも楽しめる雪国の子供のタフさが今も私のどこかに息づいているといいな。
あたたかい部屋であたたかいスープを飲みながらそう思うのです。