不思議のゾーン

2020-12-19

「あ〜、この人ねぇ〜、苦手なんだよなあ」と思いながら、その人が作ったものを斜に構えて見始めても、途中で「あれっ、なんか、いいじゃん」ってなってむしろ好きになったり、苦手な人がしゃべってたり書いているものを見て「おもしろいじゃん」と微笑んでしまうなど、どんどんそういう感じになってきてるんだよね。不思議だよね。なんなら、相変わらず「この人苦手なんだよな」と思ったまんまで、その人が作ったものがよければ、それを「好き」と思える、みたいな。

「嫌い」だと思っていた対象に近づいてみたら「好き」の種が隠れていたことを知るってことはよくある。表裏一体っていうけど、どっちが表でどっちが裏なんだかわかんないけど、ひっくり返してみたら意外といいもんだったりするかもしれなくてさ。

いつか、私がこういう思考になってしまった時のことを書きたいとずっと思ってるけど、むずかしいんだよね。言葉って限界があるから。

そういう考え方やわかり方が、“スピリチュアル”とか“気づき”とか呼ばれてしまうことで、それらを嫌悪する人たちから脊髄反射的に敬遠されてしまうことがあり、いつしか私はその方法を自分から手放してしまった。いわゆるスピリチュアル系、気づき系の人たちとも私は違うし、そもそも私はそういう系の本や人物をぜんぜん知らないんだけどなあ…と思いながらも、そこから遠い人たちにとっては全部同じに見えてしまうことを知っているので、避けたのだった。そんな風に自分に背いて10年ぐらい過ごしてしまったんだけど、とうとう行き詰まり(自分に背を向けると人はまともに生きられないのだ)、青森に戻ってきて、徐々に徐々に時間をかけて今のような感覚が戻ってきたところがある。

(この話を難しいと感じる人は、読まなくて大丈夫ですよ)

それでも、コロナがなければここまでにはなっていないだろうな。世界が大きく変わる時だからこそ、この考えはいま必要なのだと「わかる」。

このブログが迷走している自覚はあるんです。

月一で東京へ行き、写真のゼミに参加、そしてベルクでの展示が終わってから、わりと抜け殻っぽくなってしまった。そこへ来て母の入院・手術があり、退院してからはコロナの世界的な流行。私個人としても古い写真データの喪失やカメラの故障があり。なんだか、感覚的にも以前のようには戻れなくなってしまった。戻るタイミングを失ったっていうのもあるけど、なんかもう「前とは違うだろ」というね。

他者に気を使うっていうよりは、自分の内側に目がいくようになって、どこか吐き捨てるように写真を撮ったり日記を書いていた気がする。サービス精神ゼロで。

それでも書きたいことはあったんだよね。あの店のあれがおいしかったとか、この喫茶店がよかったとか、そういうこともいいんだけど、それよりもなんか、腹が立ったことを腹が立ったと言いたい気持ちとか、許せないことだったり、もどかしさであったり、そういうことも別に言っていいんじゃないかって。きれいに整えないで吐き出してみる練習っていうかね。

人を信頼できるようになってきたのかもしれない。

見たくない人は見ないんだよ。でも見てる人は(少ないけど)いるので、まあでも私は人のために書いてるわけでもないんだけど(だって誰が見てるか知らないし)、でも、発信し続けていれば、なにか感じ取る人、感じ取りたい人、同じ揺れ方をしてる人はこの場所を見つけるし、何かしら受け取れるものがあるかもしれないなあって。そこを信頼しようと思った。

これからどんどん、好きなことだけをやれる時代が来ると思うんだけど、でもそれ、絶対手を抜けないんですよ。生半可にできない。やるならとことんやらなきゃいけなくて。でね、私、今日紙に書いてみてびっくりしたんだけど、自分がずっと考えてること、見てるもの、やってること、お金をかけてること、ぜーんぶ「写真」だったんですよ! ウケる〜。

ウケるよね。

そんなのもうさ、やるしかないじゃんね。カメラ迷ってる場合じゃない。あと、この一年ぐらいずっと「自分の作品が作りたい」って思ってて、実は自分がやってる写真は作品未満なんだよなあって自覚があって。ベルクで展示できたのはやっぱり先生や写真仲間のおかげなんだよ。私一人だと作品にまで昇華できないことを一人になってみて痛感した。

そもそも、撮ろうとする時点で見えてなきゃいけないんだよ。ただ闇雲に撮ったって、あとで選んで作品に仕立てるのは本当に大変。ほぼ作品にならない。だって、ステートメントに何て書くの? 寄せ集めの作品です、エヘヘ。って書けないよ、さすがに。

それでも、迷子でも、「自分の作品が作りたい」ってずっと思ってて。ずーっと思ってるんだよ。思い続けるしかなくて。作れるまでは思い続けるしかないでしょ。だから常に考えてて、私が今ここにいてカメラがあって写真に興味があるってどういうことなんだろう?とか、何をするために今こういう状態なんだろう?とか、わかんないんだけど、考え続けること。いつかわかった自分が、苦労しながらも撮りたい写真が撮れて、人にも見てもらって、写真やってて良かった〜と思える風景を思い続けるしかなくて。そこで笑ってる自分をイメージし続けるんだよ。

諦めたり、「どうせ」「私なんて」って言い出したらマジ終わるんで。

コロナ、本当に憎たらしいけど、自分を見つめる長い長い猶予期間をもらったと私は思ってる。

おばさんが今更何言ってるんだよと思われるのが怖い、みたいなこと前は思ってたけど、「しらんがな」ですわ。人の目を気にして引け目を感じたりするのアホらし。実は誰もそんなこと言ってないのに自分一人で気にしてるだけなんだよね。言われてる気に、勝手になってる。万が一、直接言われたとしても、知ったこっちゃないんだよ。その人、私の人生に関係ない人だから。

いつになく本気と書いてマジに書いちゃってるけどさ…

スピってないんだよこれ。今日は飲んでもいないし。

ただ、生々しい生き物である、ってだけなの。

こんなに進んだ世の中でも人間が超脆いの笑っちゃうよね。こんなやわやわな体でさ。すぐ傷ついちゃうんだぜ?

でも考えて悩んでもがいて転んだり起き上がったりまた転んだりできるの、私らだけじゃん。面白いよ。可愛いよ。不思議な生命体だよ。ウケるよ。

私がここにいる意味、うっすらとだけど、見えてきた感がある。もっと深いところまで掘り下げてみたい。ここで出来ることが何かあるはず。ここで会うことになる人も、まだまだいるんだよ。そういう予感がする。