通路の先

2020-12-13

12月11日

写真の神様は「死ぬな」とおっしゃっている。(と思えることが今日いくつかあった)

私が好きな写真家に、清野賀子(せいのよしこ)という人がいる。いた。私が知った時はすでに亡くなっていて、出版されたわずかな写真集にも高値がついていた。経緯はわからないけれど自殺だという。どんな姿の方だったのか写真なども見当たらず、ネットで集めた情報といえば、雑誌『マリ・クレール』で編集をされていたこと。高橋恭司さんの影響で始めた写真の才能をコムデギャルソンの川久保玲氏に認められ、編集をやめて写真家になったこと。一時期ギャルソンのDMに写真が使われていたこと。ギャルソンの青山本店で展示をしたこと。最初の写真集は8×10で撮られたらしいこと(高橋恭司さんの影響かもしれない)。どうやら精神病院に通われていたらしいことなど。

ネットに転がる情報を集めてもむなしく、輪郭はどこまでもぼやけてつかみどころがない。

定価の5倍ほどの値がついた写真集を買い、それを見たとき、私は救われたような気がした。そのあとすぐに「なんで」と思った。

今この人がいないことが許せない、と思った。

刻々、誰のさしまねき、

明るさはすみずみまで眠っていない。

おまえはのがれ去ることなく、いたるところで

心をあつめよ、

立っていよ。

パウル・ツェラン「刻々」、『絲の太陽たち』(飯吉光夫訳、ビブロス、1997年刊)より

この『至るところで心を集めよ立っていよ』という写真集は、清野さんが通っていた川崎の病院へ行く道すがら撮られた写真を中心に構成されているらしい。その中に、なんともいえない親しみを感じさせる高齢女性の写真が出てくる。調べたところ、どうやら清野さんの母親らしい。親しみの正体は、私の母親にどことなく似ているからである。

更新されないということは悲しいことだ。この人がいま生きていたら世界をどんな風に見て、どんな風に撮っただろう。あるいは撮らなかったんだろう。「この人がもし生きていたら」という想像がナンセンスだということはわかっている。でも、顔も知らない女性の後ろ姿を私は追いかけてしまう。彼女が残していった「通路」の先に何があるのか、私は見たい。

…と書いて、きれいに終わろうとしたんだけど、こういう写真集が限られた人にしか見られないことにだんだん腹が立ってきた。必要な人はきっといるのに。私も1冊目の写真集をまだ買えていない(高いんだよ)。こういうの、どうしたらいいの。オシリス(出版社)に手紙書けばいいのかな。