日記

2020-04-24

いろんなバトンが飛び交っているが、いかなるバトンも私には回ってこない。小学校の頃リレーの選手だったけど、次の人にうまく渡せなかったからそれきり回ってこないのかもしれない。

毎日毎日写真を何枚も何枚も現像して何枚も何枚も何かしらに上げているが、正直何の意味があるのか…という気持ちになりつつある。そもそもフォロワーも多いわけじゃないし、特に交流もしないし。私が見てほしい人にほとんど届いていないのだと思う。リアル知人や数少ないフォロワーさんに「いいね」負担をかけるのも悪い気がするし、どこか遠くの知らない街に住む、まだ見ぬ同志のような存在を欲している自分に気づく。小6の時もこんな気持ちになり、そこから全国の女の子たちとの文通が始まったのだった。

…ってまあ思い出話の続きは書きませんけど。

なんか新しいこと考えないとですねえ。頭をひねって。人を楽しませられるようなことを。

家にいると片付けぐらいしかやることがない人が多いのだろう、スーパーの衣類回収ボックスからあふれた古着がいくつも山を作っていた。断捨離が大流行。私も先日から終わらない断捨離を続けている。以前だいぶ捨てたつもりだったが、くだらないものがどんどん出てくる。コラージュのネタ用に買った古雑誌などが地味〜に私の気持ちと場所を圧迫している。という話を友人にしたら「たまにやればいいじゃない(コラージュを)」と一笑された。確かにね。

情け容赦なくSNSも断捨離したいところ。一回逃亡してリセットしたくなりますよね。ね。あるいはドカンとフォロワーを増やして、一人一人を気にならなくしたい。

なんか新しいことを考えなければいけないことはわかっているんだけど、その前に身軽になりたいのよね。軽くなるには、自分や現状を見つめなきゃいけない。過去から引き継いできたストレス、けっこう溜まってるのかもしれないなあ。

急に思い立ってNirvanaを聴く。死ぬほど懐かしい『Nevermind』。「Smells Like Teen Spirit」は私が当時好きだった某パンクバンドがライブ前のSEに使っていた曲なので、開演前のドキドキ感まで思い出す。

タバコ臭い八幡山の1Kアパートでもよく聴いた。その当時の私は写真を見るのは好きだったが、撮ることに興味は全くなかった。むしろ、たまにポラロイドカメラや「写ルンです」で撮った写真を見せると友達に「ヘッタクソだね〜!」といじられていた方だった。事実、下手だった。いじられても悔しいとも思わずヘラヘラしていた。うまくなりたいなんてちっとも思わなかった。撮ることに全く興味がなかったのだと思う。

当時、誰の写真が好きだったかというと…いや、誰っていう選び方ではなかった気がする。いいものはいい、好きなものが好き。誰が撮っていたかは、あとになって知ることが多かった。高校の頃から洋雑誌が好きで、中でも『i-D』と『THE FACE』をよく買っていた。その中の広告写真やファッション写真で気に入ったものを眺めたり部屋に貼ったりしていた。だいぶ後になってわかったのは、私がそうやって愛おしげに眺めていた多くの写真が、ヴォルフガング・ティルマンスによるものだったということだ。

(ティルマンスのサイトでいくつかの写真集のpdfをダウンロードすることができます)

セバスチャン・サルガドなどシリアスな報道写真も好きだった。演出され、作り込まれたものより、瞬間をとらえたスナップやドキュメンタリー写真を好み、“決定的瞬間”のカルティエブレッソンのことは、名前からではなく写真から存在を知った。ロバートフランクは写真自体はそこまででもないなと思いつつ(失礼!)連続写真とか写真の上にひっかき文字で何か書いたりするのが面白かった。

他にも色々あるが、これらは全て、何の予備知識もない状態で書店(ABCやPBC)へ行って、自分の感覚だけをたよりに選んだものだ。もちろんその手の書店に売られているものなので、どれを選んでもちゃんと有名人だったわけだけど、自分の見る目の確かさみたいなものは当時から備わっていたんだなあと思う。(ナマ言ってすいません)

今でも私は自分の「見る目」だけには自信がある。というかそれしか自信ないかもなー。あっ、でもこれ、自分には通用しないやつなんで、自分の作品については全くわかりません。いいのか悪いのかわからん!お前の作品はつまらん!ほぼ悪い!としか思えません。致命的!

わーわー言うとります、寝るお時間です、さようなら。