下書きだけが人生だ

2020-04-02

ずいぶんとこのブログを書かないでいたせいで、文章を書ききることが難しくなってしまった。書きたいことがないわけではないのに。

なので、みなさんの目にはほとんど更新されていないように見えていると思うんですけど、実はずーっと前からいくつもの「下書き」が私の目だけには見えています。

それらの下書きは、今の自分が読んでも「ククク、面白いやんけ」と思えるものなのだけど、いかんせん話題がフレッシュじゃない。タイミングを逃してしまった文章というのは、煮ても焼いても食えぬものである。落ちた鮮度は戻らない。

とも言い切れない。

日記は古くなっても面白いと思う。私は人の日記を読むのが好きである。だから、自分の日記も捨てないでとっておく。しかるべき時がきたら、煮るなり焼くなりしてみなさんにお見せできるかもしれません。私のやっていることは、生きているうちにほとんど価値が見出せないようなことかもしれないなあ、とぼんやり思うことがある。今撮っている写真だって、ひとびとに感動を呼び起こさせるようなものでないことは、自分がよくわかっている。それでも、私の目が見て「これは撮っておかなければならない」と思った小さなもの、街、店、通り、暮らしなど、途方もない時が経てば誰かが懐かしんだり面白がってくれるかもしれない。

未来の人に向けているつもりでもないのだが、消えてしまうもの、消えそうなもの、誰も目を向けないようなものを私は撮りたい。一方で、感動的な風景、光と影の派手なコントラスト、大写しになった子供の笑い顔、ハッとするようなハプニング、味のある職人のしわしわの手のアップなど、自分では撮らない類の写真、多くの人々が喜ぶだろう感動的写真、そういうものを私も撮らなければいけない、撮れるようにならなければいけないと勝手な強迫観念におそわれ、そのくせ心の底では興味がないので努力する気にもなれず、「努力をしない者=悪」という罪悪感に苛まれいて、ここ最近の気分は最悪だった。

私はそもそも人物を撮るのが苦手だ。と言いつつ撮ってみればそこそこうまく撮れることも知っている。だけど、撮れるのと撮るのとでは話が違う。私は、ポートレートがやりたくて写真をやっているのではない。

こんなことを言うのは少々気が重いのだが、関心のないことにはカメラを向ける気になれないし、面と向かって人物を撮る時のなんともいえない居心地の悪さに私は耐えられない(隠し撮りでいいならいくらでも撮りたい)。友人知人を撮るのは好きなのだが、遊びながら撮った楽しげな写真であっても見返すのが怖くて長いこと放置してしまったりもする。我ながら訳がわからないが、どうしようもない。

あ、ほら、話がどんどんずれてきちゃった。ほんとに文章を書ききれなくなってるんですよ。全然まとまらない。いや困った。これも下書き行きかな。

まあ、たぶん、ぐじゃぐじゃ言ってないで何でもやってみればいいんだと思うんですよ。うるせーな、黙ってやれよ、てことだと思う。わかる。でもさあ、もう若くない人が何にでも手を出して今さら新しいことを習得してどうすんの、って気持ちもある。向き不向きってあるし。もうさんざん、こんな調子で生きてきてしまったのだ。いまさら苦手を克服して「できる!」って勘違いしたってその山を登って極めた人たちはすでに沢山いる。だったら、あれこれ手を広げるよりも小さいながらも今まで集めてきたもの、「すでにある材料」を使ってそれを存分に活かせることをしたほうがきっといい。今あるものだけで、じゅうぶん動けるはずなのだ。ただし、手を抜かずにやりきること。

おっ、書ききれたじゃないか。見苦しいほどの悪文だけど。

(この文章は2020年3月27日の下書きに加筆したものである)