新年に思う

2022-01-02

言葉にするとはっきりしてくることがある。「私は無能じゃない」と言葉にしてみた時、自分をないがしろにしてきたのは他の誰でもなく自分だったのだと気づいた。

「私はドキュメンタリ写真がやりたいのだ」と言葉にしてみた時、こみあげてくる熱い感覚があった。私たちは自分のことをあまりよくわかっていないのかもしれない。わかったような顔をして、私のことを一番わかっていないのはこの私だ。

酔っ払った時、だらだらとしゃべる癖がある。ひとりでに何やらオートでしゃべっている。酔っ払った頭ながら我に返って「今なんか大事なことしゃべってたな、あはは」と思ったりする。そういう時は飲み始めから録音すればいいのだと思う。酔った時の自分は宇宙とつながれるのだと勝手に思っていて、それは案外本当かもしれなくて、ていうか今もほとんど酔っ払っいながらこれを書いているわけで、年も明けて1月1日深夜、正しくは2日午前1時。何かをやり始めると、自分は全く何も達していないことに気づかされ、勉強をはじめるわけだが、何歳になってもこれはずっと続くんだろうなという気がしている。というより、何歳になっても学びたいことがあり、学べるということはとてもいいことだなと思う。私は何者でもなく、いまだにからっぽで、それが今は心地いい。気にしたこともあったけれど、こんな年齢にまでなってしまった今、気にすることもばかばかしくなってしまった。もうすでに私の存在がばかげているのだ。

自分の中の静けさと冷たさ。写真を見ればわかる。距離感。私は決して近づかない。踏み込まない。中に入らない。誰もこっちを見てない。私があなたを見ていないのと同じ。

酔うと詩的になっていけない。私的でもある。指摘はない。ああ、この調子で今年も行くのか。我ながらあきれる。あきれながら笑っている。笑いながら泣いている。感情が忙しい。私は今年もこのままで、自分のままで、生きます。死んだらごめんなさい。