日記

2021-03-20

私は私の好きな写真を撮っていくしかないんだという気持ちになっている。私が好きな私の写真はとにかくウケが悪いことも知っている。試しにSNSにあげてみるとまあ見事に反応がない。こんなにきれいに違いが出るのかと思うほど人気がない。(人気がすごいある写真というのもまた無いわけだけれど)(悲しいかな)

でも、自分がいいと思っていることを信じてやり通すしかないんじゃないか、という気がする。それはとても孤独な道だ。だけど、それをすることが私にとって一番幸せなんじゃないのか。

すいません今酔っ払っているので、文章がアレだと思いますけど

ずっと一年ぐらい、写真のことばかり考えてきて、カメラも壊れて、でも新しいものを買う気持ちになれなくて、写真が全く面白くない時期も長く続いて、相変わらずそんなに反応もないし(いつも同じ顔ぶれ。それはそれで安心するし、ありがたいとも思っています)、でも反応とか他者からの評価なんてそんなに大事だろうか? そこを気にして態度を変えるのはおかしくない? もっと自分の気持ちと真摯に向き合った方がよくない? 誰に見向きもされなくたって、私は私の世界を追求すべきじゃない? という思いが今、湧き上がってきた。(mogwaiの新しいアルバムを聴きながら)ずっとくすぶってたんだろうな。

不得意なことを克服したり器用にふるまうことが必要な人はそうすればいいし、やりたいことをやるために技術や機材が必要なら手に入れたらいい、ってだけの話で、私はどこを向いていたんだろうな? 考えたいことややりたいことはもっと別のところにあったのに。自分に対して、なんかごめんという気持ちだ。

有名になってどうすんの? 人に好かれるために自分を捻じ曲げてどうすんの? やりたくないのに「やらなきゃ」って展示する意味なんかある?

でも別に固まっていたいわけじゃないんだよ。面白そうなことには手を出したい気持ちはあるし変化していくものだとも思ってる。けど、大事なところはブレたくないかもしれない。さんざんブレブレだったけど。

頭のいい写真じゃない。優れたところもない。統一感もない。はっきりとしたテーマもない。まだ全然ペーペーだと思ってる。使命とかなんにもない。社会に貢献もしない。それでも撮る理由ってなんなのかね? そもそも理由ってなに? 理由って必要?

あ、それらを否定してるんじゃないです。頭のいい写真、優れた写真、統一感のある写真、はっきりとしたテーマのある写真、何らかの使命感を持って撮られた写真、社会貢献的な写真、嫌いじゃないです。私は違うよね、っていう話です。

好きな服と似合う服が違うってことよくあるけど、似合わなくても好きな服着ていいし、似合うものがわかっていてそういう服を好んで着られるならとても幸せなことだと思う。私は自分が好きな写真を撮っていくしかないんだよ。それを私だけはわかってやる。いいねって思ってやる。イマイチならイマイチだねって言う。イマイチな写真がめちゃくちゃバズったとしても、私はそれを「いいね」とは思わないでおく。そういうことだよ。(そもそもイマイチな写真を外に出すな)

自分の幸せは自分が一番知っているはずだ。楽しそうにやっていたら、良さに気づく人がそのうち現れるかもしれない。現れなくたって別によくて。私だけは私の良さをわかっているから。

いや、ちょっと、待て待て

深刻な顔で難しく考える必要すらなくて、たかが写真だよ? もっと楽しんだっていいんじゃない? だって写真、楽しいじゃんね。自己中心的に自分で撮りたいもの撮って、遊んで、まあ見たい人がいたら見たらいいよっていう程度で、

酔いがさめてきてしまった

何をつべこべ言っているのだ私は。

明日、写真撮りに行こう。