日記

2020-11-21

「情緒を排除したい」と唐突に思った。

冷酷なまでに情緒を排除したい。私は感情的にすぎる。自分の感覚と感情に振り回されて地に足がついていない。あ、これは写真の話だからね。エモい写真とは対極の写真が撮りたい。それにはやはり冷酷なまでに事物を写し出す機材が必要なんだろうね。あなたの家で眠ってるライカ、中判機、高級コンパクトフィルムカメラ、私が有意義に使いますよ。

今日読んだ小説に「憮然」が4〜5回も出てきた。ぶぜん。多分作者は4〜5回すべてで使い方を間違えている。(そのように私には読めた)ムっとしたりカッとなった時に使う言葉ではないのに、そのような場面で使われていたのだ。

名だたる文学賞を獲るような人がこんなことでいいのかと思ってしまう。校正もどうなっているのか。それとももう、この誤用が誤用でなくなるような意味の更新がなされたのだろうか。私は憮然としてため息をついた。

自分だって知らず知らず間違った使い方をしているかもしれないのに、なぜこれほどまでに誤字や誤用にうるさいのか、私は今一度考えたほうが良さそうだ。

単に、気になってしまうということはある。目について「これはおかしいぞ」となる。「書く前に調べないのだろうか?」と疑問がわく。せっかくこれまで本を読み進めてきたのにこういう箇所を見つけると途端に気持ちが萎える。作者に対する信頼もゼロに近くなってしまう。

私には学歴コンプレックスがある。というより「学歴がない」。だから、私よりいい学歴を持ち、ちゃんとした立場の人たちにはしっかりしていてほしいのだ。よい大学を出たなら言葉なんか間違えないでほしい。頭のいい人たちにしてみれば、そんな小さなことを気にすることそのものが非効率で「頭がわるい」ということになるのかもしれないが、持たなかった者のひがみで、持っているならちゃんとしろ、と言いたいのだ。

ある席で、出身大学を聞かれ、私が大学を出ていないことを言ったとき、水を打ったようにしんと静まり返って、気まずそうに顔を伏せた男たちよ、あなたたちは一生、どうか一つも言葉を間違えないで生きてください。私はあの軽蔑を忘れません。「いまどきこんな人間がいるのか」という目を決して忘れません。

ばーか、ばーか。