カメラと写真、ときどき景勝地

2020-10-06

欲しいカメラがなくて困っている。いや、欲しいカメラがないこともないんだ。だけど中古価格がやたら上がっていてムカついている。ふだん撮る分には、今あるカメラや借りもののカメラで十分な気もしていて、実は特に困ってもいないのだが「ちょっとは困れよ」という気もしてくるし、なんだかなあ。

今年に入り、「自分の作品」ってやつを持ちたいよなあと思っていて、でもどうしたもんかわかんなくて、ウンウン唸って、唸っているうちにコロナが来て、望遠ズームでホームタウンを撮ったりして、つねにカメラ持ち歩いてる状態でなんでもかんでもシャッター押すってことをやってみたりもしたけれど、そのうち酷使していたカメラが壊れ、今に至っていて、古いデジタル一眼とフィルムカメラで海や砂浜は木を好んで撮っているというわけで。

撮るものが変わってきた気はしている。

そこに意識的になれないところが私だよなあと呆れてしまうんだけど、感覚としてはっきりと違うな、というのがわかってきた。例えば、初めて訪れた能代市を歩いていても、歩き慣れた弘前の飲屋街を歩いても、以前ほど楽しめない自分がいることに気づいてしまった。

それよりも、自然が作り出したもののほうに興味を惹かれる。惹かれるっていう生半可なものじゃないんだよな、なんていうか、恐れ入りました!って感じなんだよね。ちょっと気を失う感じ。そういう凄み。「立ち尽くす」って言葉の意味を説明する画像に使えるんじゃないかっていう見事な立ち尽し方で、私は大自然を前に立ち尽してしまうのだ。

自然なんか誰が撮っても同じだろうってバカにしてきた。こないだいわゆる景勝地にも行ったんですよ。んで、インスタに投稿してみたんすよ。位置情報もタグもつけて。すると、他の人が撮ったその場所の写真がわーっと出てくるわけだけど、それ見てたらなんか、やっぱり他の人が撮った写真とは違うんだよね。ぜんぜん派手さがなくて笑ってしまうけど、やっぱり私は演出とか過剰さが嫌いなんだよね。誰が撮っても同じってわけじゃない。似たような写真はあるかもしれないけど、機材や現像の違いもあるんだけど、なんていうのかな、向き合い方が違う気がしたんですよ。私にとっては明らかにただの「観光」ではないんだな、と。もっとありのままの、深いところを見ようとしている気がする。その場所を訪れるのは一度や二度じゃだめで、何度も足を運んでこそ見えてくるものがありそうだな、と感じる。

自分でも出口が見えず手探りで今書いてるんだけどさ。

あとやっぱりフィルムの方が写真的だなーと、どうしても感じてしまう。中判機にも興味あるし。デジタルだと際限なく枚数撮れるしやり直せるけど、なんか弱い気がする。なんなんだろうな、ペラいっていうか芯が細いっていうか、脆いっていうか。いや、そんなこともないのよ実際。デジタルでも骨太な作品は作れる。これは私の問題で、私の意識と、向き合い方の問題なんだよ。

うーん、まあ、よくわかんないや。よくわかんなくなっちゃった。

寒くなってきましたね。もう10月だなんて本当に信じられないよ。

深浦町/大岩海岸

景勝地。この日は気まぐれな天気で、表情がくるくる変わった。私には、自然がいちばん恐ろしくいちばん美しい。階段の昇り降りで即座に筋肉痛になった。情けなし。

三脚持ち歩いて撮ることを始めようかな。今、なんとなくそう思った。