暗闇に光るもの

2018-12-19

小さい頃、暗闇がおそろしかった。夜、誰もいない和室をのぞくと火の玉がうごめくのが見え(るような気がし)たし、飾り棚の中の日本人形やこけしたちは闇にのまれて一斉にどこかへ消えてしまったのではないかと思えた。晩ごはんのあと、母に玄関の電気を消してきてと言われた私はタタタッと玄関まで行き、パチンとスイッチを切って、真っ暗闇になった廊下を 後ろを振り返らないように明るい居間のドアめがけて突進したりした。

ただの小さな臆病者だった私が、ある時から暗闇をまったく恐れなくなった。

30歳になるかならないかの頃だったと思う。「人は、自分の住みたい世界に住める」と突然気がつき、「幽霊など見えないし感じない」という世界を選んで生きることにした。暗闇の中に何かが見えるかもしれないことをもう恐れなくていい。私の決めた世界ではそれが見えないことになっているのだから。この世…というかあの世に幽霊や妖怪はいるかもしれないし、別にいてもいいとは思っているが、私の世界には「ない」というだけのことなのだ。もし私が闇を覗き込んでも、誰も、何も、闇の方からは私を覗き込まない。仮にあの世から覗き込まれていたとしても、私にはその姿が見えないし何も感じないのだから無いのと同じだ。

私たちはみんな、意識するとしないとにかかわらず、自分の住みたい世界に住んでいるのだと思う。

なぜ闇を恐れるのだろう。わたしたちはみんな闇から生まれ、闇の中で眠り、まばたきの一瞬一瞬に闇を感じているはずなのに。

なんてカッコつけつつも、夜の田舎での撮影は別の意味で怖い。誰一人歩いていないのも怖いが、誰かに出くわすことも怖い。こちらも怪しまれないように、用心して歩く。路地裏には立ち入らない。一か所に長くとどまらない。撮影は21時半までには切り上げる。

あちこちで粗品を差し出されるたびに「いらないなぁ…」と思うことの多い私だが、先日たまたま某所でたすき状の反射材を差し出され、「これ欲しかったんです!!」と珍しく食いついた。反射材ごときでこんなに喜ぶ人がいるだろうか。何かのついでに買われることもなく、人に外出と購買をうながすほどの力を持たないのが反射材である。そいつが向こうからやってきた、二つも。ありがたい。これで少しは暗闇で存在をアピールできるだろう。私はここにいますよ、怪しい者ではございませんよ、と。

いや、待てよ、向こうから歩いてくる通行人Aが「夜にこんなところでウロウロ撮影する人間などいない!」という世界に住んでいたとしたらどうだろう。

通行人Aが目撃するのは、暗闇の中をゆっくりと揺れながら近づいてくる真新しい二本の光るたすきかもしれない。

 

 

撮影地:五所川原市