親戚、つらい、猫かわいい

2018-08-15

母の生家には今も高齢の伯父夫婦が住んでいて、盆と正月には顔を出してお互いの生存を確かめている。

40を過ぎた私に向かっていまだに「おがったねえ(大きくなったねえ)」と目を細める伯父夫婦。毎回言われる「お婿さんもらったんだべ」に対する「あはは、まだですよー」という定型の返答もなんだか今年は一層むなしく感じた。長年通っていてもお互いのことは何も知らないし、調子よく話しかけているようでいて何も話していないような母、その母が離席してしまうと残された父・私・伯父夫婦では会話が尽き、黙ってテレビを見るしかなくなってしまうこと、掃除の行き届かない古い台所、壁にべたべた貼られた注意書きや薬袋、日めくりカレンダーの日付が「明日」になっていたこと、何度も母の名前で呼ばれたこと、出されたスイカが腐りかけていたこと、この時間は一体なんだろう、血のつながりとは、関わりとは何なのだろう…などと考えていたら、どうにもつらくなってきて、私はたまらず外に出てしまった。窓から見えた猫を追いかけるふりをして。

長年、汗水たらして畑仕事をしてきた伯父夫婦。私は小さい頃、ここへ来るのがいやだった。古くて汚くてダサかった。文化がなかった。しゃれた家のしゃれた親戚じゃないことがいやだった。でもそう思うことが悪であると知っていたから、私はここでずっと作り笑いをしながら、出されたものを「無邪気に」おいしいおいしいと言って食べた。

大人になってからは明るく声をかけたり笑顔で接することができるようになった。いつまでたっても私を子供のように扱う彼らの笑顔に癒されてもきた。毎回同じ話だろうが、それでもよかった。

でも今年はなぜか、その全てがつらくなってしまった。

伯父さん夫婦は何も変わっていないのだから、私の感じ方が変わったのだろう。こちらが都合よく「いい」と判断したところだけを良しとして完結させしまうのは、ただの思考停止のような気がした。

ごはんなどのお世話は、近所にいるお嫁さんがしてくれているようだ。たまにデイサービスへ行く以外は、ほとんど二人きりで寝て起きて食べてテレビを見る生活というのは、どんなものだろう。長い人生、真面目に働くだけでなく脱線したり寄り道して視点や所属を増やし、趣味や楽しみ、茶飲み友達を持っておかないと厳しいかもしれないと思った。でもみんながみんな、そんな風にうまくやりくりできるだろうか、という気もする。

東京で暮らす孫たちから誕生日に送られてきたというメッセージが壁に貼られている。以前はそれを良きものとして眺めていたが、今年はなぜか「ね? じーちゃんばーちゃん孝行の、いい孫でしょう」というポーズにしか見えなくて、しらじらしく感じてしまった。遠く離れていれば、作り物のような優しさを持つことができる。私は東京にいた時、自分の親にそういう気持ちを持っていた。都合のいい親像を勝手に作り上げ、プレゼントを贈って「いい子供をやっている」ことに酔い、安心する。受け取る側が喜ぶならそれで十分かもしれないが、本物の愛情ではなかったと今ならわかる。

こんなことを思う私が歪んでいるだけならよいのだが、これも一つの現実なのだ。みんな本当のことは知りたくないし向き合いたくない。私はきっと、目が覚めつつある。だから世界がちがって見えてきたのだと思う。それがいいのか悪いのかはわからない。幻想から目覚めてしまうと、もう前には戻れないことも知っている。本気で関わるつもりがないなら蓋をして、ただニコニコしていた方がいいのかもしれない。人とどう接していけばよいのだろう。わからないまま、眠りにつく。

と、ここまで書いて、いったんアップしたのですが、終戦の日の今日、見よう見ようと思いながら見ないでいた『この世界の片隅に』(映画)を観て、泣いて、ぼーっとして、

もうやめよう、これで最後にしようと思いました。
もう自分の生まれや環境を恨むのはやめよう。
「無い」ことで、わたしはここまで生きてこれたんじゃないか。それでいいじゃないか。

私は明らかに先祖の中の誰にも似ていない。突然変異種のようなものかもしれない。そのおかしさをずっと隠して、うわべだけ「ふつう」になろうとしてきたけれど、それももう終わりにしたい。私は私でいい。だってそれ以外にありえないから。