日記

2020-12-16

わからないことがたくさんあるのは幸せだ。わからないものについて考え続けられるのは幸せだ。

先日買った分厚く重い写真集は一筋縄ではいかない本だ。簡単に「いい」とか「わるい」とか「わかる」なんて言えない本だ。私は「わからない」ことを考え続けられる時間を買ったのだと思う。それは私にとってこの上ない幸せである。わからなくても、写真として強く、恐ろしく、面白い。頭ではなく、体が「わかる」と言う。見た時にゴーっと音がする。体じゅうの血が共振しているのだ。

私もいつか、そんな写真を撮りたい。

その先に何があるのか、前もってはわからない。私は未来の「におい」のようなものは察知できるし、「今だ!」という瞬間もわかる。でも、その先に何が待っているのかまではわからない。まったく自分の想像も及ばなかったようなことが、時々起こる。起こっている。ここから私はどこへ運ばれていくんだろう。どこへ向かおうとするだろう。ただ振り落とされないように、しっかり自分で自分をつかまえておく。遅いなんてことはない、いつかそのスピードに乗れる。そう信じる。

冬の日記

2020-12-15

ゆうべ、音もなくしんしんと降った雪が驚くほど積もり、今日からいよいよ冬の幕開け感がある。

仕事の合間に雪景色を撮ろうと思ったけれど、なかなか「今!」というタイミングがなく、撮ったのはこれだけ。

さっと車を路肩に停めてぱっと撮った。雪が、どんな車をもハイルーフに変えてしまうのがおかしい。

帰宅すると重い写真集が届いていた。重くて重い。一生かかっても全てを読み込めないかもしれない。私にとってかけがえのない写真集になることだろう。

このごろ、感謝することが増えた。というより、毎日感謝が止まらない。知り合いか知り合いでないかなど全く関係なく、私の存在はいろんな人や物によって支えられていることを感じる。生きているか死んでいるかすら関係がない。ご先祖はもとより、死んだ人が作ったものを見、書いたものを読み、歌を口ずさむ。生きている人たちと同じだけ(またはそれ以上)多大な影響を受けている。その存在すべてに感謝が止まらないのである。

今年はカメラが壊れ、写真を撮ることよりも写真について、撮る姿勢について、自分について考えることが多い一年だった。まだまだ毎日考え続けていて答えは出ないが、やめられないのでやめるつもりがない。新しいカメラを買わねばならないのだが「これ!」という決め手がなく、とうとうライカが欲しくなってきてしまった! でも私がライカを持つということは田舎の事務員がポルシェに乗るようなものだと思い直し(第一、ポンと買える金額ではないのだ)、身の丈と必要に合った選択をしようと。

でも、いつかはライカ!と思うことはやめないようにする。思い描くのは自由だし、思い続けるのも自由だから。そっちの方を向いていたいのよ。無理と思ったら無理になっちゃうの。だから可能性を否定しないでおく。

ていうかもう半月経ったの!? 12月の早さは異常だな。。

来年は展示もやりたいなー。新しい習慣も取り入れたい。できるだけ健康的でシンプルに。それでいて楽しく。あとは今よりもっと自由にいろんなとこ行けるようになったらいいねー。まあ、行けなきゃ行けないで「ここ」を充実させようか。

何かを選ぼうとする時、何かを捨てなければいけないんだと思う。私はそれができずにグズグズしてきたから「これです」と言えるものがないんだと思う。

同じものを撮っても、意味が違うんだよね。「ああ、それね」って後追いで撮っても似たようなものは撮れるんだけど、「何か」「違う」って感じが出る。それをキャッチする力が弱い人にはおんなじに見えるだろうけどね。

眠いから支離滅裂になってきたな。。

寝ましょう。

そうそう、秘密の「飲酒ブログ」、きっちり書いてるんですよ、誰にも見つかってないけど笑。私はそれをどうするつもりなんだろうねえ。

さ、寝る。

通路の先

2020-12-13

12月11日

写真の神様は「死ぬな」とおっしゃっている。(と思えることが今日いくつかあった)

私が好きな写真家に、清野賀子(せいのよしこ)という人がいる。いた。私が知った時はすでに亡くなっていて、出版されたわずかな写真集にも高値がついていた。経緯はわからないけれど自殺だという。どんな姿の方だったのか写真なども見当たらず、ネットで集めた情報といえば、雑誌『マリ・クレール』で編集をされていたこと。高橋恭司さんの影響で始めた写真の才能をコムデギャルソンの川久保玲氏に認められ、編集をやめて写真家になったこと。一時期ギャルソンのDMに写真が使われていたこと。ギャルソンの青山本店で展示をしたこと。最初の写真集は8×10で撮られたらしいこと(高橋恭司さんの影響かもしれない)。どうやら精神病院に通われていたらしいことなど。

ネットに転がる情報を集めてもむなしく、輪郭はどこまでもぼやけてつかみどころがない。

定価の5倍ほどの値がついた写真集を買い、それを見たとき、私は救われたような気がした。そのあとすぐに「なんで」と思った。

今この人がいないことが許せない、と思った。

刻々、誰のさしまねき、

明るさはすみずみまで眠っていない。

おまえはのがれ去ることなく、いたるところで

心をあつめよ、

立っていよ。

パウル・ツェラン「刻々」、『絲の太陽たち』(飯吉光夫訳、ビブロス、1997年刊)より

この『至るところで心を集めよ立っていよ』という写真集は、清野さんが通っていた川崎の病院へ行く道すがら撮られた写真を中心に構成されているらしい。その中に、なんともいえない親しみを感じさせる高齢女性の写真が出てくる。調べたところ、どうやら清野さんの母親らしい。親しみの正体は、私の母親にどことなく似ているからである。

更新されないということは悲しいことだ。この人がいま生きていたら世界をどんな風に見て、どんな風に撮っただろう。あるいは撮らなかったんだろう。「この人がもし生きていたら」という想像がナンセンスだということはわかっている。でも、顔も知らない女性の後ろ姿を私は追いかけてしまう。彼女が残していった「通路」の先に何があるのか、私は見たい。

…と書いて、きれいに終わろうとしたんだけど、こういう写真集が限られた人にしか見られないことにだんだん腹が立ってきた。必要な人はきっといるのに。私も1冊目の写真集をまだ買えていない(高いんだよ)。こういうの、どうしたらいいの。オシリス(出版社)に手紙書けばいいのかな。

やめようかな

2020-12-04

目が疲れすぎて夜10時ごろに限界を迎えてしまうんですよね。仕事で一日中パソコンを前にしているし、帰ってから写真の現像や整理でまたパソコンとにらめっこだし、やはりなんといってもスマホ見過ぎ問題ってあるよなあ、と。ほとんど依存症なので。

写真整理中に、ヤフー知恵袋の回答をスクショしたのが出てきて、なんだろうと思ったら、以前気になる夢を見た時にその内容で検索したら似たような夢を見た人の相談があり、それに対する回答がまったく「私」そのものをあらわしていたのでメモとして残したのだと思う。

今改めて読んでみたら、なんともまあ、おっしゃる通りというか自分の問題点をズバズバ言われているようで、はあ…こりゃダメだわと凹みました。

こりゃダメだ、こんなポンコツ人間じゃ。

さっきまで、ある配信動画を見ていて、私よりちょっと若いぐらいの人たちがあるテーマで大人の会話をしていて、私には初めて知る現実が多く、自分はなんて無知で無教養で勉強不足で幼いのだろうと思ってまた落ち込んだりもして。

わかっていたけど、なんか改めて突きつけられた感じ。ということは成長してないな…

もう成長できるような年齢でもないし、もろもろ諦めた方がいいのかもしれないね。

とか書くじゃん。抵抗するんだよね、体が。やめんじゃねえよ、って。

なんかやっぱり集中力が弱いんだよね。さっきの夢診断でも「気が多い」って書かれてて、ずっとそうなんだよね、子供の時から。常に、なんだよ。何かをしながら別の何かが気になってしまう。パソコンに入力しながら全く別のこと考えてたりします。わたしが一つのことに集中するのってよほどの時です。よほど好きなことかよほど得意なことです。

街で写真撮ってる時とか、ZINE作ってるときは休憩もせずにやり続けるのがあまり苦ではないので、好きなんだろうね。まあこのブログもそうか、なんだかんだ続いてる。そもそもの始まりから数えると…うわー、うわわわわ! 私が自分のページ持って日記書いたりし始めたの20年前だわ…引くな〜。もう大好きじゃん。ベテランじゃん。

話それたけど、

その夢診断ではさらに「自分に甘い」「他人に厳しい」とも書かれてて、はぁ、本当にその通りすぎて返す言葉もございません。昨日反省したばっかりだけど。なんかもっと自分を立て直したほうがいいんじゃないか、まずはそのために時間使わないか? しばらくSNSとか見たりアップする頻度減らしてみてはどうかね?と思えてきて。

スッとやめられるタイプだったらいいんだろうけど、私は文通世代なので(古いな)ネット社会が向いてるんですよね。顔が見えないコミュニケーションが好きなんです。現実のしがらみもほぼないし。

やっぱりちょっと考えたいな。時間の使い方。漫然とYouTube見る時間とか極力カットしたい。ASMR動画禁止!(眠くなるし)SNS脳みたいのになっちゃってた気もして、あと写真の人たちフォローしてみると、私が気に入ったぐらいなので(なんか偉そうですいません)みなさんめちゃくちゃいい写真なんだよね。それ見てたらなんか、こういう人たちと肩並べられないなぁって気になっちゃって、はぁ、もう。

あの、一回落ち込む、っていうのをやっているので心配ご無用です。わかってやっているので。

でもまーね、SNSはやりすぎだと思う。とにかく「画面」を見る時間を減らす!それは確定です。「画面」ではなく「現実」を見る!手を動かす!ということをしようと思います。

写真もね、プリントしてナンボってとこがあってね、

ただ「画面」上で見ていても全然頭がクリアにならないし判断が鈍る気がする。ゼミで教わったようにプリントアウトして、並べて…っていうことを今一度やろう。はい。そんなわけで、新しく「やる」ための凹み日記でした。

雑に書いて読み返しません。おやすみなさい。

ぬまぬま帝国で反省中

2020-12-01

虫の居所でも悪かったのだろうか、半月前このような文句を書き殴ったことを私はいま猛烈に反省している。

某所にて

写真大好きおじさんは好きなように写真を撮っていいし、下手だろうが雑だろうが(ほらまた毒入っちゃってる!こういうとこだよ!)ちゃんとした手順を踏んだのだからどこでどんな展示をしようがいいのです。

見た瞬間カーっとなってしまい、新鮮な怒りのままその場で書いたブログだったんです、あれ。本人在廊タイプの展示じゃなくてよかったね。書いてアップしてからもなんだかモヤモヤして、さらに時間を置いてみて、あれはやっぱりひどかったなと改めて反省。私はよく、ぬるいものを作る人に腹を立ててしまうんだけど、そうすればするほど自分の行動のハードルが高くなっちゃうんだよね。試しに軽い気持ちで何かやってみる、ってことができなくなる。結局さ、誰かや何かを否定してしまうと、自分の行動範囲を狭めちゃうんだよ。同じやり方や同じ振る舞いができなくなる、ってことなんです。

SNSで写真の人をぽつぽつフォローするようになると、いろんな写真を目にする機会が増えて(その人たちが「いいね」した知らない人の写真が目に入ってくるから)面白いんだけど、中には好みではないものも出てくる。だけど、そういう写真には私なんて比じゃないぐらい「いいね」とかついているわけですよ。一時期はそういうのに「へっ」と思ったりしてたんだけど、ある方面の人たちの心を楽しませる写真ではあるのだよなあ、と。どんな写真も誰かにとって何か思うところがあるのかもしれない。どこに着目するか、どこに感じ入るのか、それは受け手でなければわからないわけで、私が偉そうにジャッジ下すのはすごく乱暴なことだなって。

それぞれの人が、その人なりの理由があって写真を撮ってるんだよね。生きがいかもしれない、リハビリかもしれない、承認欲求かもしれない。記録、コレクション、表現手段。大切な誰かとの約束かもしれない。ぬるい気持ちでやってる人なんていないんだと思う。その人なりに切実なはず。だったら私はそれを否定すべきじゃないって。誰かにとってのかけがえのない一枚なんだもんね。

日記

2020-12-01

昔好きだったあるパンクバンドのことを思い出し、過去の映像などを色々と漁っていた最中、YouTubeにおすすめされたこのPV。私にはかつてBOØWY好きだった過去があり(“あるパンクバンド” よりそっちのほうが古い)、当時は子供だったわけだけど、弘前のイトーヨーカ堂の新星堂で(お年玉で)買ったレコードはたぶん今もどこかにあるはず。このPVも発表当時2~3回見たことはあったものの、大人になってからは見たことがなかった。改めて見ると「本物」の手触りがして呼吸が苦しくなってしまった。「本物」に触れると私は呼吸が苦しくなって頭がくらくらしてくる。

この曲がシングルカットされたBOØWYのアルバムは『PSYCHOPATH(サイコパス)』といい、ジャケットにはエルスケンの写真が使われている。今ならなんてタイトルだ!と思うが、子供だったので意味などわからなかった。しかし子供ながらに「BOØWYはもう終わりかもしれない」と思っていた。まあ、難解な曲が多かったから子供には理解できなかっただけかもしれないが、どことなく風通しの悪さみたいなものを感じ取っていたのだった。

それでも『マリオネット』は売れたし、この『季節が君だけを変える』も耳に残る名曲で、アイドル好きの同級生が「あの曲いいよね」とわざわざ言ってくるほどだった。ポップな中に、誰の琴線にも触れやすい響きがあったのだと思う。なんといってもタイトルがいい。わかったようでわからないところがいい。今思えばバンドの方向性や別離を暗示していたのかもしれないが、当時はそんな想像も及ばず、ただただ詩的で謎めいたフレーズがかっこよかった。

この曲のシングルカットが1987年らしいので、多分PVもその頃に撮られたものと思われる。写っている人たちは(全員がそうではないと思うが)当時ファンクラブを通じて募った人たちらしい。

この淡々と生々しい撮り方はなんだろうか。私はこの映像を撮った人が誰なのか本当に知りたい。シリアスなポートレート写真集を見た後のような、あるいは報道写真のような冷たさと重さが残る。見ながらしばしば呼吸が苦しくなってしまった。

どうやらOKAMOTO’Sという若いバンドがこのPVのオマージュ作品を作ったらしい。

へー、なんか質感が違う。それにしても豪華な面々だこと! 似せて作られたとはいえ、全く別物になっているのが面白い。むしろこっちのほうが古く(懐かしく)感じる。ノスタルジックでほんのりあたたかい。鋭さはない。

もちろん、写っている人や時代背景や土地の違いもあるのかもしれない。BOØWYの方はおそらく新宿周辺だと思うんだよね。全体に流れる空気感がピリピリしてるのなんでなんだろう。ずっと居心地悪いよね。そこがいいんだけど。

思い出した、芸術ってほんと疲れるんだよね。純度の高いものが本気でかかってくるので、こちらも本気で受け止めなきゃいけない。いやはや、こんな国民的ポピュラーバンドのPVに純粋なアートが持ち込まれているとは思わなかった。BOØWYのほかのPVざっと見たけど、ここまでじゃないんだよね。本当に誰が撮ったんだろう。どうしてこういう映像にしようと思ったんだろう。気になる。

注:当初貼っていた動画が消されていたので新たに貼り直しました。

日記

2020-11-25

こう、と決めると自分の世界はちゃんとそうなるのかもしれない。私なんかダメだ、と思うとダメな私の世界ができあがる。自分が望んだものに私たちはちゃんとなっているのではないか。

時々、何をやってもうまくいっていなそうな人を見かけるけれど、その人は自分のことを「何をやってもうまくいかない」と思っているのではないか。(思ったものになるのだとしたら)

「お金がない(からダメだ)」と思っている人は、お金がない現実を自ら作り出しているのではないか。

さらにいえば、

「私なんかダメで、何をやってもうまくいかず、お金もない」という自分でいることで、なんらかのメリットを得ているのではないか?

努力しなくていい、がんばらなくていい、壁にぶちあたらなくていい、という「メリット」があり、自分でそれを選び取っているのだとしたら。

なんてね。