日記

2021-01-07

私なんか別にコロナの影響なくほのぼの生きてるつもりだったけど実はけっこう参ってるんだなって。時々些細なきっかけで泣き出したりしてしまうんだよ。顕在意識にのぼってこないけど大きな不安があるんだろうな。私でさえそうなんだから、もっと大変な人たくさんいるわけで、そういう時に頼りにならない国ってなんなのって話でさ。

KID FRESINOの新譜いいですね。

年賀状、お手紙、メールありがとうございます。うれしいうれしいうれしい。私は何を返せるのかな。もうちょっと待ってくださいね。

メルカリ

2021-01-06

ずっと探している写真集があり、時々メルカリをのぞく。べらぼうに高い値がつけられたものが一冊。これはいくらなんでもないわーと思いつつ出品者の「その他の出品」を見てみる。名だたる面々の貴重な写真集を安くない価格で出品して、しかも売れている。それでいて、貧乏くさいニットや綾小路きみまろのDVDなんかも出品している。

メルカリってさ、その人が手放した人生の輪郭が浮かび上がってきて、見ててちょっと辛くなってくるんだよね。。

以前も、デザインの良書の数々を出品している人の「その他」をのぞいたら、育児本とかベビー服なんかがあって、ああ、結婚出産を機にデザインの仕事をやめたのだろうな、と想像できたり。ま、わかんないけどね。

なんか、悲しいんだよね、メルカリ。やろうやろうと思って私はまったくやれてないんだけど。もしやったら、自分が手放した「自分」が見えてきて悲しくなるのかもしれない。(案外、不用品がお金になった!って喜ぶだけかもしれないけどね)

ほどほどに

2021-01-03

新年あけましておめでとうございます。

いかがお過ごしですか。

ぼーっとTwitterを流し見ていたら、誰かがリツイートしたややバズりツイートが回ってきた。子供が書いた無邪気な詩に選者評がつく、という新聞記事を装っている。7歳の子供が書いたとされる詩の言い回しからすでに違和感。選者がSMクラブ経営者っていう時点でありえないし編集部注もわざとらしい。もちろん出典も明記されていない。明らかに創作であるのに、そのツイートにぶら下がっているリプライや引用リツイートは、それが「事実」だという前提で展開されており、吐き気がした。

危ないと思うよ。こんな人ばかりじゃ。

その詩のタイトルや選者の名前でググればすぐに出どころがわかるというのに、おかしいと思って調べる人もいないのだろうか。小説家を目指して(?)ネットに細々と創作物をアップしている素人が2012年に創作したものだとすぐにわかった。この画像だけが一人歩きし、あらゆる場所にペーストされたのだろう。

「それがなにか」を確かめようともしない、「それがなに」であるかどうでもいい無邪気な人たちが多いということなのか。新年早々がっかりしてしまう。いや、昨年までなら、なんかまあそういう人たちもいるんだな、ずいぶん素直な人たちだなと思って終わったのだろうけど、なんかもうそういうの嫌だなと思えるようになったし、嫌だなと今年は言っていきたい。

これじゃあデマに踊らされるわけだよ。影響力のある人や自分が信じている人の言うことを疑いもしない。自分の頭で考えずに誰かの考えの影に隠れているのはさぞかし楽だろうね。

昨日の「逃げ恥」、私は制作者や演者たちの心意気を感じたし、社会問題盛り込みすぎの感はあるにせよ、今これをちゃんと言わないと!という強い意志を感じた。でありながら楽しく、ほろりとさせる仕上がりになっているのはすごいと思ったのだったが、インフルエンサーの某爪さんが難色を示し、自分のオンラインサロン(一ヶ月500円で入会しなければならない)に逃げ恥評をアップしていて、なんじゃそりゃと思ってしまった。普通に書けよ、、あんたのサロンに金払いたくないんだけど、、というわけで読みません。

あーあ、Twitterなんか見ない方がいいですね笑

結論それになっちゃった。

うん、今年の目標一個思いついたぞ。

「食べすぎない」

食べ物もそうだけど、Twitterでもなんでも、食べすぎないということ。ほどほど。一つのことはほどほどに。バランスよく。

というわけで今年もよろしくお願いいたします!!

私は

2020-12-30

私には、人に見せびらかしたいものなど何一つないのだ

とわかって、清々しい気持ちになった。

今年ももうすぐ終わりだね。

あなたの一年はどんなだった?

私は

日記

2020-12-26

Twitterでよく見ていた柴犬が重度の膵炎にかかってしまったらしい。スマホごしに写真をなでなでして、どうかがんばって、と思いを飛ばす。

祈り。

私は祈りを馬鹿にしていない。思いは通じると信じる。よくなると信じる。

想像の中の犬をなでる。あたためる。癒す。光で満たす。

私はずっとそうしてきたんです。愛する者たちに、ずっとそうしてきた。もうダメかもしれない、という時はわかる。悲しいけれどわかる。まだなんとかなりそうだったらひたすら祈る。力を送る。それは、別に減らないんですよ。祈りと引き換えに私が憔悴するわけじゃない。こういうの、愛っていうんだろうな。どうもクサっ!てなって自分では「愛」って言葉使いたくないんだけど。

「地の時代」から「風の時代」に移行したと言われている。そう言われなくてもなんとなくわかる。つながりたい人とどんどんつながれるようになる。会ってもいない人たちと、意識が通じ合うのを感じることも増えた。なんとなしに見た情報が、その人とつながっていたと知ることも多い。すべてが必然なのだ、と21歳で気づいて以降、そう思い続けて生きてきたけど、それがこれほどわかりやすい時代もないと思う。

これまで控えてきた内容のことも、どんどん言えるようになっていけるかもしれない。そのことが、本当は怖かった。むき出しになってしまうからだ。人はどこかで武装していたいものだ。ダイレクトに傷つきたくないから服を着る。知識や理論でも武装する。でももうあんまりそういうのが必要じゃなくなると思う。かえってじゃまになる。

ずっとそんな世界が来ればいいと私は望んでいたのかもしれない。

しばらく混乱は続くだろうけど(ていうかオリンピックやめない?今からでも)(ていうか不起訴っておかしくない?)(辞職してくんない?)、私たちにできることは、日々を愛おしむことだけだよ。

本当にそれだけだよ。

日記

2020-12-23

(寝ながら書いている)

雪道が怖いという母の運転手として病院へ。昨日までの寒さが嘘のように晴れて暖かいせいで、道路の雪はほとんどとけてしまっている。これなら母は自分で運転できたんじゃ…?と思わないではなかったが、まあいいや。

病院へ来るとやたら眠くなってしまう現象はなんなのだろう。私だけかな。いろんな人々の病エネルギーから身を守るためにシャットダウンさせられているのだろうか。

ひさびさに来た病院は以前よりかなりしっかりとコロナ対策がなされていた。以前はツッコミどころ満載の「抜け感」だったからなあ。

待っている間、会計窓口の方から「坂本龍馬さ〜ん」と呼ぶ声がする。え?マジ? そのことをTwitterに書いたら知り合いのフォロワーさんから「斬られたのかな!?」とリプライが飛んできてプフッと笑ってしまった。

5千円の価値だと思っているカメラをヤフオクで見つけ、5千円までなら入札しようと見守っていたところ、なんと一気に9千円まで値を上げた人がいて「このカメラは5千円がせいぜいなのに!」と怒り心頭、すっかり買う気が失せてしまった。これはきっと、買うなということなのだと自分を納得させる。

疲れたので寝よう。かぼちゃ、おいしかった。(冬至)ゆず湯は、いい柚子が売ってなくてやめた。前職でたくさんもらえたことが懐かしい。今年もあの職場にはダンボールいっぱいの柚子が休憩室に置かれただろうか。みなさんどうかお元気で。 

不思議のゾーン

2020-12-19

「あ〜、この人ねぇ〜、苦手なんだよなあ」と思いながら、その人が作ったものを斜に構えて見始めても、途中で「あれっ、なんか、いいじゃん」ってなってむしろ好きになったり、苦手な人がしゃべってたり書いているものを見て「おもしろいじゃん」と微笑んでしまうなど、どんどんそういう感じになってきてるんだよね。不思議だよね。なんなら、相変わらず「この人苦手なんだよな」と思ったまんまで、その人が作ったものがよければ、それを「好き」と思える、みたいな。

「嫌い」だと思っていた対象に近づいてみたら「好き」の種が隠れていたことを知るってことはよくある。表裏一体っていうけど、どっちが表でどっちが裏なんだかわかんないけど、ひっくり返してみたら意外といいもんだったりするかもしれなくてさ。

いつか、私がこういう思考になってしまった時のことを書きたいとずっと思ってるけど、むずかしいんだよね。言葉って限界があるから。

そういう考え方やわかり方が、“スピリチュアル”とか“気づき”とか呼ばれてしまうことで、それらを嫌悪する人たちから脊髄反射的に敬遠されてしまうことがあり、いつしか私はその方法を自分から手放してしまった。いわゆるスピリチュアル系、気づき系の人たちとも私は違うし、そもそも私はそういう系の本や人物をぜんぜん知らないんだけどなあ…と思いながらも、そこから遠い人たちにとっては全部同じに見えてしまうことを知っているので、避けたのだった。そんな風に自分に背いて10年ぐらい過ごしてしまったんだけど、とうとう行き詰まり(自分に背を向けると人はまともに生きられないのだ)、青森に戻ってきて、徐々に徐々に時間をかけて今のような感覚が戻ってきたところがある。

(この話を難しいと感じる人は、読まなくて大丈夫ですよ)

それでも、コロナがなければここまでにはなっていないだろうな。世界が大きく変わる時だからこそ、この考えはいま必要なのだと「わかる」。

このブログが迷走している自覚はあるんです。

月一で東京へ行き、写真のゼミに参加、そしてベルクでの展示が終わってから、わりと抜け殻っぽくなってしまった。そこへ来て母の入院・手術があり、退院してからはコロナの世界的な流行。私個人としても古い写真データの喪失やカメラの故障があり。なんだか、感覚的にも以前のようには戻れなくなってしまった。戻るタイミングを失ったっていうのもあるけど、なんかもう「前とは違うだろ」というね。

他者に気を使うっていうよりは、自分の内側に目がいくようになって、どこか吐き捨てるように写真を撮ったり日記を書いていた気がする。サービス精神ゼロで。

それでも書きたいことはあったんだよね。あの店のあれがおいしかったとか、この喫茶店がよかったとか、そういうこともいいんだけど、それよりもなんか、腹が立ったことを腹が立ったと言いたい気持ちとか、許せないことだったり、もどかしさであったり、そういうことも別に言っていいんじゃないかって。きれいに整えないで吐き出してみる練習っていうかね。

人を信頼できるようになってきたのかもしれない。

見たくない人は見ないんだよ。でも見てる人は(少ないけど)いるので、まあでも私は人のために書いてるわけでもないんだけど(だって誰が見てるか知らないし)、でも、発信し続けていれば、なにか感じ取る人、感じ取りたい人、同じ揺れ方をしてる人はこの場所を見つけるし、何かしら受け取れるものがあるかもしれないなあって。そこを信頼しようと思った。

これからどんどん、好きなことだけをやれる時代が来ると思うんだけど、でもそれ、絶対手を抜けないんですよ。生半可にできない。やるならとことんやらなきゃいけなくて。でね、私、今日紙に書いてみてびっくりしたんだけど、自分がずっと考えてること、見てるもの、やってること、お金をかけてること、ぜーんぶ「写真」だったんですよ! ウケる〜。

ウケるよね。

そんなのもうさ、やるしかないじゃんね。カメラ迷ってる場合じゃない。あと、この一年ぐらいずっと「自分の作品が作りたい」って思ってて、実は自分がやってる写真は作品未満なんだよなあって自覚があって。ベルクで展示できたのはやっぱり先生や写真仲間のおかげなんだよ。私一人だと作品にまで昇華できないことを一人になってみて痛感した。

そもそも、撮ろうとする時点で見えてなきゃいけないんだよ。ただ闇雲に撮ったって、あとで選んで作品に仕立てるのは本当に大変。ほぼ作品にならない。だって、ステートメントに何て書くの? 寄せ集めの作品です、エヘヘ。って書けないよ、さすがに。

それでも、迷子でも、「自分の作品が作りたい」ってずっと思ってて。ずーっと思ってるんだよ。思い続けるしかなくて。作れるまでは思い続けるしかないでしょ。だから常に考えてて、私が今ここにいてカメラがあって写真に興味があるってどういうことなんだろう?とか、何をするために今こういう状態なんだろう?とか、わかんないんだけど、考え続けること。いつかわかった自分が、苦労しながらも撮りたい写真が撮れて、人にも見てもらって、写真やってて良かった〜と思える風景を思い続けるしかなくて。そこで笑ってる自分をイメージし続けるんだよ。

諦めたり、「どうせ」「私なんて」って言い出したらマジ終わるんで。

コロナ、本当に憎たらしいけど、自分を見つめる長い長い猶予期間をもらったと私は思ってる。

おばさんが今更何言ってるんだよと思われるのが怖い、みたいなこと前は思ってたけど、「しらんがな」ですわ。人の目を気にして引け目を感じたりするのアホらし。実は誰もそんなこと言ってないのに自分一人で気にしてるだけなんだよね。言われてる気に、勝手になってる。万が一、直接言われたとしても、知ったこっちゃないんだよ。その人、私の人生に関係ない人だから。

いつになく本気と書いてマジに書いちゃってるけどさ…

スピってないんだよこれ。今日は飲んでもいないし。

ただ、生々しい生き物である、ってだけなの。

こんなに進んだ世の中でも人間が超脆いの笑っちゃうよね。こんなやわやわな体でさ。すぐ傷ついちゃうんだぜ?

でも考えて悩んでもがいて転んだり起き上がったりまた転んだりできるの、私らだけじゃん。面白いよ。可愛いよ。不思議な生命体だよ。ウケるよ。

私がここにいる意味、うっすらとだけど、見えてきた感がある。もっと深いところまで掘り下げてみたい。ここで出来ることが何かあるはず。ここで会うことになる人も、まだまだいるんだよ。そういう予感がする。