ぼくの好きな先生

2021-11-16

昔お世話になった担当医の顔が見たくなって名前で検索してみた。今は老人施設の診療所にいるようだ。施設のブログの中に診察中の写真を見つけた。相変わらず優しい笑顔で患者と向き合っていた。私はこの人に育て直してもらったようなものだなあと思う。

毎回、赤ん坊のように泣いた。涙は枯れることがないことを知った。それでも、一番つらいこと、決定的なことは先生にも話せなかった。消えて忘れてしまわないように、言わなかったのかもしれない。

ダウンロードした先生の写真はお守りのようにデスクトップ上に置かれている。開くといつも優しく笑っている。それを見て私は泣いてしまうのだ。

日記

2021-11-05

ブログ再開しても結局一ヶ月経っちゃうっていうね。。

さて。2020年6月ぐらいまでガンガンに使い倒したミラーレス機が壊れて以来、ずっと「新しいカメラ買わなきゃなー」を言ってきたしこのブログにもさんざん書いてきたんですけど、それから1年間ぐらいは結局買わずに手元にあった型落ちのデジタル一眼やフィルムカメラを使って(コロナということもあり)主に地元近辺を撮ってきたわけで、それはそれで自分的に新しかったんですけど、まあついにというかなんというか、数ヶ月前に買いまして。

SNSはふつうに更新していたので、見ていて「アラ、この人カメラ変えたわね」と気づいた人いるかなあ。いるかもしれないねえ。

ちなみに私は「おっ、この人めっちゃいいカメラ買ったね!」っていうの、わりとすぐ気付きます。「ライカ買ったんだな」とか。Exif情報見たりはしないけど、なんとなくわかる。(はずれてる可能性もある)

私は性格が悪いので、このページに載せている写真はExif情報消してます笑(忘れてる場合もある)

新しいカメラなんですけど、まあいいカメラなんですよ結構。目つぶっててもそこそこ良く撮れちゃうというか。まだ完全に仲良くなれた感じはしないんだけど。

ていうかさ、

カメラ変えてから写真撮る頻度が明らかに落ちてるんですよねえ。なんなんだろうなこれは。気分が乗ってない。「ふーん」っていう感じ。

そのくせ、フィルムカメラで撮る気も失せてしまって、「ふーん」っていう感じなんだな。

どうしたのかな。

なんとなくずーっとうっすら「しにたい」感じはあって、でもなにしろ「うっすら」なので直ちにどうこうっていう訳でもなく。ふつうに仕事は毎日行ってるし、気持ちは毎日うっすら「しんどい」けど、しぬほどのことでもないし。。しかし帰宅すると何もする気が起こらなくて推しの動画とか見ててもすぐ眠たくなっちゃうし思い立って断捨離とかしても一時的で、なんかすぐ気持ちが折れちゃうんだよな。。やるべきことだけがどんどんうず高く積みあがっていって、と同時にうすーい「しにたさ」が積み重なって端っこがヒラヒラし続けている。

というわけで、またかよ、またメンタルヘルスかよ、って読者の皆さんもうんざりしてくるかと思うんですけど(日記なのに他者を意識するスタイル)、それでいて「推しごと」は毎日欠かさないんですよ。実は私にもとうとう「推し」ができてしまいましてね。。

でもなー、なんかマズいって思ったんだよなー。誰かや何かへの「夢中」(という名の依存)が始まる時って結構弱ってる時なんだよなーって。現実逃避だもん、これ。

実生活の充実と推し活の両立ができる人は健全だなあと思うんですけど、私の場合はどうも不健全になってしまう。何かから目をそらすための「推し」という存在になってしまいがち。逃避であり投影。がんばっている推しを見て感動したり涙したりするけれど、私自身はどこか空っぽのままなんだよなあ。

椅子に誰も座ってないのよね。

半年ぐらいずっとこんな感じだったなーと。先月ぐらいに気付きました。(遅いんだよな)

友達と会ったりしゃべってる時は楽しいんだけどね。一人になると無になってしまう。

よく知らない人から見ればうまくやれてるっぽく見えてるかもしれないけど、私ってかなりマズくない? 基本的な生活全般が苦手だし(苦手以前に興味がない。。)人を待たせるし、何をやっても飛び抜けないし、器用そうに見られるけどそんなことはないし、勉強も足りないし、長続きしないし、すぐ忘れるし、目の前にないものは「ない」ことになっちゃうし(それでまた待たせることになる)、

なんか、、かなり大事なものが欠落した人間なのではないか、、と

自分にはどうも人間に必要な部品がちょっと足りないんだろうなあとは思っていたけれど、今ほど打ちのめされてはいなかったというか、勘違いできてたんだろうね。まあ普通でしょ、と思えていた。でも「あれ?」って気づいちゃったんだよな。かなりヤバイ人間なんじゃね?と。

※2022年1月2日追記

どう見ても途中で終わっているけど下書き当時の日付のままアップします。

🚽 カテゴリー

あのとき私は宗教画だった

2021-10-12

かかりつけ医にて月1の診察。珍しく私のほかに患者がだ〜れもいない。早々に名前を呼ばれる。特に変わったこともないので「はい、いいですね」と言われて退室しようとしたのだが「あっ、ここって皮膚科も大丈夫でしたっけ、これこれこういう処置もできますか?」と聞いてみた。とっさに口をついて出たって感じだった。

「うん、できますよ」

医師は今すぐにでもやる勢いだ。心の準備が…

でもやるなら今だという気もして「お願いします」と言ってしまう。

看護師たちがバタバタと準備を急ぎ、舞台は整った。

5〜6人の看護師が私を取り囲む。そのうちの一人が私の患部にスポットライトを当てた。

医師は患部を凝視しながら神妙な面持ちで施術を開始する。

しーん

しーん

しーん

誰も何も言わない。

しーん

しーん

しーん

医師のひそやかな鼻息だけがマスクごしに聞こえる。

私を取り囲むすべての人々がその一点(患部)だけを見つめ息を呑んでいる。

ちょちょちょ!

たぶん今、宗教画っぽくなってるから〜!

最高にエモかったと思うわ。誰かに写真撮ってほしかったです、マジで。

というわけで、数ヶ月放置しておりましたこのブログ、またぽつぽつ書いていきたいと思います。正直、メンタルの調子があんまりよくなかったのだと思います。まあ普通に仕事はして普通っぽく生きてたんですけど、今までできていたことが全然できなくなったり、逆に今まで全く興味のなかったものに過剰にのめり込んでしまったり、意欲ゼロの日が続いたり、なんだかずっと悲しかったり、ちょっとしたことで泣いてしまったり。私は昔からそうなんだけど、自分の調子のおかしさに気づくのが超遅いんですよね。なんなら人に指摘されまくって一番最後に気づく、という。

あと慣れない挑戦をして気持ちがたかぶったり、めちゃくちゃ楽しいことがあった後も、逆にズドーンと落ちてしまうんですよね。調子を取り戻すのに数ヶ月かかったりする。

という、はいはい、アンタめんどくさいやつだったわそういえば、というのを思い出したので少しは操縦しやすくなったかと思います。まあ今日は異常に頭が冴えているので逆に危ないですけどね。

動かないと死ぬんで、動いていこうと思います。

「やらなきゃ」はやめにします。もっと軽くていいんだよな、「やろっかな♪」ぐらいの気持ちでやっていきたいと思います。

まあちょっと生きてみよっかな♪

日記

2021-06-18

ほぼ毎年イベント用に制作しているZINE、今回はやめにした。昨年から実は「そろそろやめようかな」と思っていて、まあつまり労多くしてナントヤラだった訳で、いやいや、単に私のスロースターターっぷりが諸悪の根源なんだけど、それにしたってね、もうどうにも、疲れてしまったのかもしれなくてね。

実は今日の朝まで、まだ間に合うからなんとかしようと思ってはいた。のだけど、試作品を見て「これは、どうなんだ」と思ってしまった。深夜に酔った状態で見たらなんとかイケそうか?と思ったけど、朝の日差しの中で見たらちっとも良くなかったのだ。写真の良さと冊子の形状の面白さがお互いを潰し合っているように見えた。第一、私の気持ちが乗ってない。いつもは試作の段階でテンションが上がってきて「うぉー!これオモロいやんけ!多分間に合わないけどやるぞー!」となるわけだが、今回はそうならなかった。テンション、一個も上がらなかった。

やる/やめる の選択肢があるとして、それぞれを選択するテストをした。

「やる」と決めてみる→テンション低いまま。暗い気持ち。空気よどむ。

「やめる」と決めてみる→ホッとする。豊かな気持ち。爽やかな風。

こりゃ「やめる」だな、と。

やりたくないことから逃げるとか、できないから諦める、というのではない。そういう時は空気がよどむ。でも、「やめる」を選んだ時、風が通った。清々しさがあった。こちらが正解という気がした。

注意深く耳をすませば、自分の気持ちが勝手に語りだすのを聞くことができる。

何かを作るとき、急いだり焦ったり付け焼刃で作らない方がいいと思う。私はとにかく腰が重いので、締め切りがあるこのイベントはありがたくもあった。たくさんお世話にもなった。きっかけと場所を与えてもらったし、狭い世界ではあるがそこそこ買っていただいたりもした。もう、卒業でいいかな、と思う。この田舎町の実家の部屋で、苦手なイラレに苦戦して、手に入る紙と材料だけで、気まぐれに色が転ぶ家庭用カラーレーザープリンターで、刷って折って閉じて切って袋に詰めて、汗をかきながらたくさん作ってきたのだ。

苦しかったけど楽しさもあった。でももう、いいよ。がんばった。

それでもなお作りたいと思える本が出てきたら、今度はじっくりよく考えて、時間をかけて、できないことは人に頼んで作ろうと思う。それを売り込んで取り扱ってもらえばいいじゃん。ライトなZINEをサーっと勢いで作った時は、冊数限定にして、個人で販売していこう。

そういう心境。

これを言葉にするの、多分ちょっと怖かったんだよね。全然関係ない日記書こうと思ってパソコンの前に座ったのに結局ZINEのこと書いちゃった。書いて、なんかすっきりした。

選択に困ったら、いい匂いのするほう、いい風が吹いていて息がしやすい方を選ぶのがいいよ、ね。

香水

2021-06-10

自分のために香水を買った。どこかへ出かける時につけるのではない。誰にも嗅がせない。私が一人で部屋にいる時にだけつける。自分で嗅いで、いいな、と思うだけのもの。この上ない贅沢のような気がしている。

若い頃、香水が好きで集めていた。自分のためでもあるが、人を意識してのものだった気がする。よくつけていた香水はもう手に入らない。年月で煮詰まって濃くなったその香水が、探せばまだどこかにあるかもしれない。でももう思い出したくはない。香りと記憶の結びつきは強いものだから。

30歳を過ぎ、青森に戻ってきてからは全く何もつけなくなった。化粧もどんどん薄くなっていった。数年前から髪を染めることもやめたし、ほとんど黒い服しか着なくなった。アクセサリーも何もつけない。

そんな私が、香水を買ったのだ。ただ自分のために。自分の気分のためだけに。

エアリプ

2021-06-09

しょっちゅうアイコン変えたり名前変えたり舞い上がったり落ち込んだりツイ消ししたりアカウント削除したり復帰したりを繰り返す人、めちゃくちゃtwitter好きじゃん! と思ってしまう。

完璧に整えた自分しか見せたくないのかもしれないけど、あなたの迷走、全部見えているし、みんなあなたの綻びをよくわかった上でそれでも好きで見ているんだけどな。

と言いたい人がいるんだけど、友達でもないので見守るしかなく。

整った人間なんていないよ。

日記

2021-06-08

私の毎日が、睡眠6h、仕事8h、めし・ふろ2h、自由時間(好きなこと)8h…で成り立っていることに気づいてムムムとなった。

好きなことが睡眠領域にはみ出して、睡眠4.5~5hになることもままある。好きではない仕事時間と同じだけ、好きな事をして取り返そうとしているようにも見える。

しかし、「好きなこと」とは?…とも考える。

その内訳はかなり漠然としていて、自分を甘やかしているだけのような気もする。目標があって頑張っているのとも違う。好きな時に好きなだけ、時間割もなくただ曖昧な時間を過ごしている。だいたい、自分のための時間が一日8時間もとれる人間など、私と同年代でどれほどいるだろうか。夫や子供や要介護者がいたら全く無理な話だと思うし、なんとか時間を捻出しているような人から見ればうらやましいを通り越して腹立たしいだけだろうなと思う。

すみません。

まあ、でもそれが私の現状なのでしょうがない。で、現段階ではどうも「好きな事」を仕事に発展させたくないんだな、ということがわかる。(あ、今ね、まるで他人事みたいに己の人生を眺めるタイムです、はい。)どうやらこの人は、嫌々ながら無の表情で毎日の仕事をこなしているんですね。8時間ドブに捨てているだけにも思える時間によって給料(ヤスイヨー)を得ている。もちろんミスをすれば責任を取らなければならない世界である。誰かにほめられたり喜ばれることもない。できて当たり前の仕事なんだから。

でもま、「できる」んだよなあ、とも思う。これができない人もきっといるので。全く難しい仕事ではないと私は思っているけれど、これが難しい人もきっといるんだよなあ。もちろん、100倍うまくやれる人もいる。私は省エネで給料分働いているだけなんだよ。すみません。

で。

最近痛感してるんですけど、私って「生活」下手じゃね!?ということ。正直、生活にあんまり興味がない。生を活かすのが下手なんだよね。じゃあどうすりゃいんだろね。今は恥ずかしながら親に頼るところが大きくて、申し訳なさより「しあわせだなあ」が勝ってしまっている。親不孝の極みです。誰か他人と「生活」をやっていかなきゃいけないのかな。それもなあ。誰かと一緒に暮らすということが無理かもしれなくて。いや、暮らせるよある程度。暮らしたことあるし。でも向いてなかったんだよね。できなかないけど、向いてなかった。私はどこにいても何をしていても別のことを考えてしまう。よく「目の前からいなくなる」と言われてきたんだけど、それは割と今もそうで。なんかあるじゃん、「いま、ここ」みたいなやつ。それっぽい人らが言うやつ。あれ、私できないわあと思う。「いま、ここ(にいない)」の連続。幽体離脱じゃんね、ずっと幽体離脱してるんだな。

小さい頃に頭から落ちたこと、無関係じゃない気もしてきたな。なんかちょっとズレたんだと思うよ。衝撃でちょっと中身が出てさ、ズレたまんま不完全に入ってさ、隙間からちょっと出てるんだと思うよ。

あーあ。

酔ってるみたいな日記。ノンアルコールだけどね。

ZINE作らないとなーと思いつつ全然なにもやってない。何も思い浮かばないわけじゃないのです、ありすぎて何もできないんだよ。ありすぎるのにどれかに絞れなくて全然時間がない。いつもそうなんだけど。それでもほぼ毎年締め切りギリギリに作って、それがそこそこ買ってもらえてるんだからすごいもんです。ただただありがたいだけです。

と書いたところで何も進まないや。この日記の途中で「大豆田とわ子と三人の元夫」見ちゃいましたからね。はぁ〜。来週最終回か。このドラマさー、前も書いたけど、面白いけどキツイとこあるんだよな私的に。けっこうえぐられる。あんまり救われたとかは思わないな。優しいとは思うけど、キツイ。でもめちゃくちゃ面白い。丁寧に刺さる。

まとめる気もないのでまたしても書きなぐり垂れ流しで終わろうかな。

と思ったけど、

私は「好きなこと」をどうしていくのがいいのかね。好きなことをする自由時間8hのうち、私がもっとも今生きていて好きな時間というのが2hありまして、それが退勤後の散歩なんだよね。ほぼ毎日、海岸を散歩している。カメラをぶら下げて、好きな音楽を聴きながら。少し走ったりもする。毎日それだけを楽しみに生きているところがあって、私はこの時間をどうしようと思っているんだろう?と散歩の後に思ったりするんだけど、別にどうこうしなくてもいいんだけど、なんかさ、どうにかしなくちゃいけないみたいな気持ちにもなるわけよ。あー、ほんとに誰かに読まれる前提すっ飛ばしたマジ日記みたいになってきちゃったけど、まあいいや。

散歩ね。波見てると時々すんごい怖くなるんだよ。気が遠くなるっていうか。大昔に地震で隆起した奇岩とか見ててもゴォォォォーみたいな気分になってさ。(どんな気分?)なにか、ありそうなんだよ。それを見つけたくて毎日通ってしまうのかもしれないし。これは私にしか見つけられないって感じがする。でもまだ何かわからなくてもどかしい。

自然の風景を撮りたいと思うようになるなんて、自分で本当に信じられない。こんなの誰が撮っても同じでしょって思って多少バカにしてたし、今私が撮り始めた写真も別に珍しい感じにはなってなくて、ただ驚いて撮ってるに過ぎなくて、今はまだ探り探りやってるけど、いつか必ず私だけの写真にたどり着きたい。この場所を撮り切りたいという気持ちがある。何故そう思うのかもわからないけれど。足の向く方へ行くしかないんだよ。それがどこへつながっているのか今はわからなくても。ほんとは自分の行きたい方向を定めて行くのがいいに決まってるんだけど、私はどうも、そういうやり方が得意ではないし、多分飽きて投げ出してしまう。予感のする方へ導かれながらたどり着いた先で何かを見つけたいし驚きたい。ふらふら、行き当たりばったりで、生活が苦手。人に干渉されたり心配されるのがとても苦手。どうしてそっちに行くんだろう?と思う人もいるかもしれない。どうしてこうなんだろうね。でも自分の興味に逆らえない。興味のない方には目が行かないからしょうがない。

何が書きたかったんだっけ? まあいいや寝るか。

日記

2021-06-02

ずいぶん時間があいてしまった。久々の日記である。好きで見ているドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』を見終わってぼーっとしている。ついでに酒も入っている。このドラマ、コミカルに描かれているけどなんかいつも見終わったあと切ないんだよな。胸が苦しくなる。

プランBを考えるようになった。「これじゃない人生」のことだ。今いる場所、職業、役割、家族などをまるごと無視して「こういう風に生きたい」というプラン。実現可能かどうかはわからないが、できるだけリアルに想像する。Aがダメになった時、自然にBにシフトできるぐらいにはリアルに想像したいと思っている。まだ漠然とではあるが住みたい街を決め、物件情報などを見はじめた。これがなかなかいい。現状は何一つ変わらないのだが、てきめんに気持ちが軽くなる。心がその場所へ飛んでいき、内見している気持ちで室内の写真を見たり、周辺をストリートビューで見たりする。ここに住んだとして、私はどんな仕事をしているだろうか?どんな仕事をしていたいのか?いくらぐらい稼ごうか?どんな服を着て、どんなものを食べていたいか?誰と、どんな一日を過ごしたいか?

思うのは自由だし、思った通りにしか人生はならないと思っている。

こんなはずじゃなかった、と思うこともあるが、こんな風になるような考え方をしていた私だったのだ。

何かが突然起こるわけじゃない。無視されたものはどんどん膨れ上がり、手に負えないほど巨大なモンスターになって目の前に現れる。気づいてほしいからだ。「ある」のに「ない」ことにされてきたからだ。何度も注意をひこうとしてきた。でも気づいてもらえなかった。だからここまで膨れ上がってしまったのだ。ずっと無視してきたものが巨大化して目の前に現れたとき、私たちはたじろぐ。突然の大事故のようで手に負えないと感じてしまう。原因は外部にはない。誰かや何かのせいではない。すべてが私の中にあり、表面化したにすぎない。解決策はただ一つ、無視してきたものに「気づく」ことだけだ。

人はいつでも、本人にその気さえあればどんな風にでもなれると私は思っている。できるだけ具体的になりたい未来を考えよう。なりたいようにしか私たちはなれない。自分のことを不幸だと思っている人は、不幸なままでいることで何かメリットを得ているのだと思う。こんなこと言ったら反発されそうだけど。

私は毎日幸せです。この世は美しい。

(一気に書いた。読み返さないし直さない)